(3):「ColtraneとDolphy」 John Coltraneの「The Complete 1961 Village Vanguard Recordings」
- John Coltraneによる「The Complete 1961 Village Vanguard Recordings」の4枚組ボックスに関するメモの(3)です。(1)はここを、(2)はここをご覧ください。
- ここでは、John ColtraneとEric Dolphyの61年頃の共演について、語り口の面と、曲に対する姿勢における「我と汝」的な関係の違いについて、メモしましたので御笑覧ください。
John ColtraneとEric Dolphy ー 出合った頃
- この61年末のV.V.での出会いの頃、John Coltraneはマイルスに雇われながら、PrestigeでRed Garland等と組んで多くの録音を残していました。その後、「Giant Steps」から始まる自分独自の路線を展開し始めたAtlantic期を経て、新生のImpulseに移籍し、第1作の「アフリカ・ブラス」をこの年の春に録音しました。そしてこのV.V.ライブの時期には、カルテットでの演奏スタイルを模索して一定の完成度を得ていました。
- 他方のEric Dolphyは、CandidレーベルでのBooker Little等との共演を経て、この年の夏には畢生の名演であるファイブ・スポットでのライブ公演をBooker Littleとやり遂げた頃で、61,62年頃はミンガス学校に属しながらも、Coltraneと結構多くの録音を残しています。このV.V.ライブの後も欧州楽旅に同行しますが、その後はまたミンガス学校に復帰します。何故か2年も経った後の63年になって、2回ほどColtraneカルテットとの共演の録音が残っています。
John ColtraneとEric Dolphy ー その語り口
- この二人の語り口の違いについては、多くの方が述べておられます。何と言ってもEric Dolphyのアドリブはいわゆるジャズの音出しからすれば並外れており、馬のいななき等と称されるように、滑らかなアルページオはあまり出てこずに、言ってみればギクシャクした、飛び跳ねる感じがあります。そしてそれはしっかりとした基礎を踏まえたものであったので、欧米語で言う「ユーモア」がそこにはありました。それもあってか、「突拍子もないアドリブ」には終わらず、むしろその当意即妙さがジャズ・ファンの心を捉えたのでした。一方、John Coltraneの場合は、出自がホンカーですから同じく基本を踏まえていて、滑らかです。人も驚くような練習好きで、その中からあの「Giant Steps」という突破口が生まれたのでしょう。
- そこで不肖Nelsonはこれを落語の世界に移しかえると、Eric Dolphyを天性の滑稽さを持ち前とする古今亭志ん生や、桂枝雀に喩えれば、John Coltraneは芸道の道筋を尊ぶ三遊亭圓生や、林家正蔵に当たるのではと考えています。つまり、John ColtraneとEric Dolphyとは、双方共に立派なジャズメンですから基本を踏まえており、厳しい練習も欠かさない誠実さもありながら、芸風が全く異なるのです。一方の Dolphyは、志ん生や枝雀のように高座に座っただけで笑いを呼ぶ、つまりアルトを吹いただけでその演奏に惹きこまれる独特の音出しが魅力です。しかし、Coltraneの場合は、それまでの「テナー・サックスは、マッチョに」という仕来りを無視した音出しです。音域もテナーにしては高く、低音域、特にサブ・トーンを殆ど使いません。じっくりと構えて吹き出す内に、その演奏に惹きこまれていくという、ジワジワ来るタイプといえるでしょう。
John ColtraneとEric Dolphy ー我と汝
- この二人の楽曲に対する態度にも、面白い対比を感じます。Coltraneは、多くの楽曲に対してマルチン・ブーバーが言う「我と汝」の関係になってしまって、言い換えれば「淫して」しまって延々と半時間くらいはアドリブをしてしまいます。それは「Naima」や「Spiritual」のようなオリジナルだけではなく、「My Favorite Things」や、「Greensleeves」のようなスタンダードでも同様です。「Impressions」は、「So What」のヴァリエーションですから、どっちに入れるべきなんでしょうか。いずれにしても、それらを演奏し始めると見境がなくなり、延々とアドリブが続きます。
- マイルス時代にもそうだったようで、御大が自分のアドリブが済んで舞台を降りて一服して、もうみんなのアドリブが済む頃かと戻ってみると、まだ2番手のColtraneがアドリブをやっていて呆れた・・・というのは有名な話です。御大が、「なんで、お前はそんなにアドリブが長いんだ。」と突っ込むと、Coltraneが「いや、いったん始めると中々終わる切っ掛けが掴めなくって、、、」と答え、御大が「そんなの、楽器を口から外せば良いだけだろうよ」とドヤシつけたという逸話があります。この「楽器を口から外せば良い」という発想は、「我と汝」状態の人には考えられないことに違いありません。事ほど左様に、マイルスにとっては、楽曲は演奏の題材にしか過ぎず、つまりは「我とそれ」の関係であったわけで、Dolphyの演奏をいろいろ聴いてみてもやはり、この人も曲に対して「我とそれ」の関係を保ち、曲は曲、自分は自分だと割り切っているように聴こえます。誤解が無いように付記しますが、ここで言う「我とそれ」というのは、けなし言葉ではありません。その曲を客観的に、冷静に捉えて、素材としてCookすることは、良いジャズの演奏には不可欠な要素です。「我と汝」の場合のように、自分と曲とが同一化してしまうと、客観性が失われ、つまりは周りが全く見え無いままに演奏をするキライが生じるのです。
長くなるので、またここで切ります。この続きはImpulseレーベルの話になります。
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