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新宿ゴールデン街「深夜+1」であわや、、、
  • あの「読まずに死ねるか」の「深夜+1」であわや掴み合いになるか、というところまで行かずに済んだ、と言うお話です。
    「読まずに死ねるか」の世界
  • Nelsonは、Jazzだけで生きているわけではなく、当然ミステリィなども大好物です。この世界では「このミス」という毎年の収穫を推薦する活動がありますが、それ以外にも故殿山タイチャンの一連の随筆があり、更に「読まずに死ねるか(Read or Die)」があります。内藤陳さんが、その時々に読んだ秀作ミステリィを推薦する「読まずに死ねるか」の作業は、内藤陳さんの目の確かさもあって人気の出版物となりました。
    「深夜+1」
  • そしてその内藤さんが初期に一押ししたのが、ギャビン・ライアルの傑作「深夜+1」です。シリーズで何作かある中でも、これはヤバイぶつを密輸まがいに運ぶという道中でのスリルを巧く描いたもので、その乾いた風味が堪らない作品です。俳優でもある内藤さんは、ミステリィ趣味が昂じて「日本冒険小説協会」なるものを設立して自らその会長となっています。そして同協会の公認酒場として、新宿はゴールデン街の一角で、その名も「深夜+1」というお店をやっておられ、何時もではないですが、マスターとしても現れていました。この有名な飲み屋街の一角で、他の店と同様に、それ程ひろくはない飲み屋さんでした。恐らくはかなりの方がその道の趣味の方で、やってきては飲んで、冒険小説についてクダを巻くという趣向です。
    酔いに任せて放言
  • ある時、もう何軒目かになるはしごで「上がりにするかなぁ」と思いつつ、帰り道の途中で気が向いて、この「深夜+1」に寄りました。ビールを呑み始めて暫くしてからですが、隣で呑んでいた人が「内藤さんの鑑識眼は鋭い」と言うようなことをクドクドと言うので、持て余し気味になりました。そして、「その通り、チンさんは凄い。良く読んでいて、幅がひろいのには頭が下がる。」と答えた所までは良かったんですが、「でも、ミステリィ小説はいろんな読み方ができるから、ある特定の作品に限れば、ひょっとすると内藤さんよりも深く読み込んでいる人も居るかも知れませんねぇ。」と口が滑ってしまいました。その見知らぬ方はNelsonの言に色をなし、「お前は内藤さんの凄さを知らん。」と詰め寄ります。「まぁ、まぁ、そういう場合もあるかなぁってことですから、、、」等と宥めていたんですが、一向にお怒りは収まりません。当の内藤さん本人はカウンターの中から我々の様子をニヤニヤして見ているだけです。困ったなぁ、と思っている内に、友達が巧い切っ掛けを作ってくれてNelsonを店から連れ出す事に成功しました。そしてその帰り道に、友人は「お前、このゴールデン街で喧嘩なんかおっぱじめるなよなぁ。」と意見をしてくれました。
    しかし、しかし、、、
  • それはそれで、巧く収まったので良かったと思います。でも上記の主張は、Nelsonの持論であり、間違いとは思えません。ある特定の芸術作品の良さに撃たれた人が深く心に刻んだ感慨は、大評論家による分析の質の高さを超えることもあるし、またやはり評論家の剃刀のような、透徹した評論に所詮太刀打ち出来ないこともあるでしょう。ミステリィとジャズで分野は違いますが、上記の飲み屋での議論は、ジャズにおいても成立する事だと思います。Those Groovy Cats」について、更に(^^;)でも同様の事に触れたつもりです。人の感動に上下はありません。大の評論家が推薦していても、自分が気に入らない盤であれば、「これは好かん」と言い切ることは決して不遜ではありません。逆にどんなに世評が悪くても、気に入った演奏について「この演奏はコレコレの理由で素晴らしい。」と言うのに何の遠慮もありません。普遍性も大事ですが、正に感動がそこにあったという証言も大事な筈です。そして、普遍的な事実の伝達が意味をもつ場合ばかりではなく、ある時ある人を撃ったという限定的であっても、真摯な感動の証言の方が意味をもつ場合もある、と思うのです。
    評論、世評は外の世界
  • 芸術はどの分野でもそうですが、自分の世界で楽しむものです。画聖ルノアールが偉いとして、自分の部屋に複製画(^^;)を飾るかとなると、Nelsonはイヤです。飾るならクリムトやシーレの方が良いし、ビュッフェも良いです。ジャズでも同じだと思います。ジャズに関していろんな人が色んなことを言う中で、評論、世評は外の世界です。自分の部屋では、自分の好きなジャズを中心に聴いています。世評の高い盤を神経を集中して聴いてみて、「チェッ、詰まンねェの」と何度思ったことでしょうか。初心者の頃は、皆が良いという盤が理解できないのは、まだ勉強が足りないからか、などと勘違いしてしまいました。ですから、何年か経って耳が変わったかな、と思って取り出して聴き直すこともしました。でも、見直すものは少なく、大概は「やっぱ、これはダメ」となりました。そのうちいろんなことが判ってきて、世間の評価よりも、自分の感触の方を大事にするようになりました。一方、友人が良いと言う盤があります。「ここが良いだろう」なんて能書きを聴きながら聴くわけですが、やはり付き合いが長いからでしょうか、「オッ、結構良いじゃン」となったり、「アンタが好きなのはよく判った。(俺はこういうのは好かんけどね) 今度こんなの見かけたら買っといたげるよ。」となります。友達はそれだけ自分に近い存在ですから、「ここんとこが好きなんだ」と言う説明を聞いていると、「こいつ、ホンマにジャズきちやなぁ」と感心し、その意味では共感します。このサイトを御覧になっている方も、Nelsonのことを「どうしようもないジャズきちだけど、俺だって他人のこと言えたもんじゃないからなぁ」と思われているのでしょう。この間も、「嗜好が偏っておるな。でも、判らんでもないからこれからも覗きに来るゾ。」というお叱りと言うか、激励のメールを貰いました。ですから、評論、世評は外の世界と心得て、耳を傾けはしますが、自分は自分の分際をよく弁えるのが吉、という事でしょう。
    好きな理由の説明
  • ある盤の紹介において、演奏者、演奏曲名、録音時期・場所等は、事実ですから誰が説明しても似たり寄ったりでしょう。さてそれでは感動に関する記述、平たく言えば「好きな理由」ですが、逃げるわけではなく、これは夫々です。菅○さんの最近の言でも引用したとおり、個別の感動や嗜好は尊重すべきであり、しかも脇で詮索しても詮方ないものです。好きな演奏について、他人に分かりやすく、共感を呼ぶような説明ができれば結構な事ですが、それは必ずしも必須ではなく、心の奥深くの自分だけの領域で納得していれば良い話です。無論、他人が分かるように説明できる場合もありますが、いつもそれができると言うのは幻想では無かろうか、と思っています。更に「評論家にはそれを表現する能力がある」と言うのは正論ではありますが、そう無邪気に思うのは買いかぶりすぎです。まして評論家自身がそう発言しているのをみると、無性に腹立たしくなります。そう言う態度は、不遜以外の何物でもありません。書評でよく見かける、例の激読男安原さんが自嘲気味に「恐怖の筋男」と自称しているのは、その意味でよく理解できます。中途半端な書評を書くよりは、「ここが面白かった」と巧く筋を紹介して読む気にさせる「筋男」に徹してもらった方が有り難いのも、そういう関係でしょう。今御隆盛の寺○さんの趣味をけなす人は多いのですが、それでも世の中でそれなりに認められ、この人の本がそこそこ売れる理由も、そこにあるのでしょう。御本人の用語では「実感」というのでしょうか、それを伝える事は大事な事だ、と思います。というか、昔のジャズ喫茶の店主は、皆、寺○さんのようなところがありました。考えてみれば、一日中、他人が聞きたいとリクェストしたジャズを聞き暮らす、というのは極めて特異な生活です。それを十何年も継続した店主の個人的な感触は、偏ってはいても根っ子がしっかりしており、生半可なジャズ評論家の「一寸聞きの解説」を超えるレベルに達しえたのです。そういう見識に対する信頼が(特に独断が過ぎる事があっても)、ジャズ喫茶が成立し、支援された所以でもある、と思っています。

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