メモを始める前に、ここで出てくるジャズメンの長幼の序と、Leeとの関係を整理して置きます。メモを読みながら時々コレを見ると、Lee Morganがどういう人と付き合っていたかが腑に落ちる筈です。
- 1938年生まれのLee Morganは、信じられないことにまだ18歳の時に、初リーダー作を発表しました。それがBNに録音した「Lee Morgan, Indeed!」盤ですが、あろうことかその翌日にも、今度はSavoyに「Introducing Lee Morgan」盤を吹き込んでいます。このMorgan家は、南部から黒人が北部に移住する全国的な流れの中でPhillyに移って来た、音楽好きで、教会に通うことを習慣とした敬虔な一家でした。長姉で、ピアノとヴォーカルをやるErnestineに連れられて、Leeは市内の劇場でCab Calloway、Louis Armstrong、Duke Ellingtonのバンドを小中学校時代に聴いて、ジャズに魅せられたようです。この姉は、Leeにトランペットを買ってやり、Leeは天性の才能を発揮して瞬く間に楽器に習熟します。
- 15歳での高校進学に際して、Leeは両親に頼んで、市内でも有名なMastbaum音楽訓練学校に入れて貰います。そこは、生徒に職業としての音楽教育を施す専門学校で、生徒同士でバンドを組んで小遣い稼ぎをするなんてことが当たり前の学校でした。卒業生には、Joe Wilder、Buddy DeFranco、Johnny Coles、Red Rodney、Ted Curson、Henry Grimes等の、日本でも名前を知られているジャズメンが、それこそ掃いて捨てるほど居たと言うから、ホント参ります。
- そんな学校でLeeは、入学直後の一年生にして自己のバンドを作って活動し始めます。Leeは、既に呆れるほどの馬鹿テクを持っていて、皆が一目置く生徒であり、その派手で、輝きに満ちたバンドは評判が良く、時にはJimmy Garrison、Jymie Merritt、Jimmy HeathそしてBenny Golson等も顔を出す程でした。その勢いもあったのか、当時、DB誌の批評家投票で「トランペットのベスト1」に推されていたChet Bakerが街に来た時、彼のギグに飛び入りします。Leeは、その早熟なプレイでChetを圧倒した末に、最後にはChetが降参して舞台から降りてしまう、という伝説的なバトルに勝ったのです。それで、一気にPhilly界隈で、Leeの名が売れました。
この時期にLeeはArchie Sheppとも親交を持ち、地元で人気の「Roberts's Jazz Workshop」(右掲)と言うクラブで出会います。Sheppは、当時の様子を次のように語っています。
「知り合ったのはLeeがまだ14の時だったけど、彼は既に市内では評判のトランぺッターだった。そのクラブでは、Henry Grimes、Ted Curson、Bobby Timmons、Jimmy Garrisonなんて若手がウロウロしていた。当時の僕は、Stan Getzみたいな音と演奏をしている段階にしかなかった。でも、Leeは皆みたいに笑わずに、僕にブルースをやろうと誘って呉れた。僕は、親父がブルースに夢中だったせいもあり、ブルースは得意だったので、俄然やる気が出た。それで、Getzやコードのことなんか全部忘れて、彼の流儀に手探りで合わせたよ。そうしたら、そこに居た連中が皆、それだよ、それで良いんだよ・・・って言って褒めてくれた。それ以来、そういう風に何か伸び伸びとやることを覚えたんだ。僕の方が一歳年上だったけど、週末には彼の家の地下室で色んな大事なことを学んだね。」
この時期、Shepp、Reggie WorkmanそしてLeeの3人で、ブルース・バンドをやっている記録があります。
Art Blakeyとは、その頃に出会いました。BlakeyがPhillyで2週間のギグをすることになった時、「Phillyはヤクの取り締まりがキツイから・・・」といって、Ira Sullivan(tp)とWilbur Ware(b)が勘弁してくれと泣きを入れましたが、Blakeyは許しません。Blakeyも、ヤクはやっていたがホドホドにしており、むしろバンドに引き込んだ若い衆にヤクをやらせて、ノメリ込んだ頃合いを見て、売人から売り上げのカスリを取るという悪い噂がありました。実情は定かではありませんが、Blakeyはヤク中にならない程度なら、やることは自己責任でと言う感じでした。売人との密談や金銭のやり取りなどを垣間見た悪友が、カスリを取っていると変に勘ぐったのでしょうが、事ほど左様に世渡りが上手というか、人付き合いは良い人だったようです。Phillyに来て、地元のLeeとSpanky DeBrest(b)が結構使えるので、この二人を雇うと、「これ幸い。」とIraとWilburはNYCに逃げ帰りました。しかし、その後はと言えば、SpankyはそのままBlakeyのバンドに残りましたが、Leeは「西も東も判らない現状で、契約で身を縛ってしまう」ことに踏み切れずにPhillyに残ります。Blakeyは仕方なく、代りにBill Hardman(tp)を使うことにします。その後、LeeはDizzy楽団に入り、バンドのウリである「A Night in Tunisia」の演奏では大活躍しました。その曲になると、Leeは御大と華麗な吹き比べを披露して、大いに名を売ることになったのです。だから、BlakeyのJazz Messengersに入るのは、Benny Golsonに誘われてからの、1958頃のことです。
- この時期には、Clifford BrownもPhillyに良く来ており、Leeは1954から56年にかけて、互いに意気投合したBrownieの家を一人で訪れて、良く練習をしていたそうです。時には二人で何時間も、地下室にこもってまで指導を受けたことが、「後になって、非常に役立った。」と語っている。
- そのBrownieが不慮の交通事故死をしたことを悼んで、Benny Golsonが「I Remember Clifford」を書いたと聞いて、Leeは「Lee Morgan, Vol.3」盤の3曲目で、早速この曲を採り上げました。その出来は抜群で、とても弱冠19歳の若者が吹いたとは思えないバラード・プレイに仕上がっています。LeeのBrownieへの筆舌に尽くしがたい敬慕の念を楽器で表現したものとして、多くのジャズファンの記憶に残っています。
- 以下は、後編にメモします。
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