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板橋文夫の人とその周辺
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- 北関東生まれの豪腕ピアニスト、板橋文夫の姿は、以下のようです。
誕生
- 板橋文夫は、1949年3月8日に足利市で生まれた。何人兄弟かは知りませんが、とにかく末っ子ということらしく、それが彼の演奏における坂東のサムライらしい野太い感触と、マッコイとは異なる甘味とに現れているのかも知れません。父親は中学校長、母親は小学校の音楽の先生という(信じられないような、と言うと悪いが(^^; Nelsonなんかとは出来が違うことは確かです。) 正真正銘の教育的な家庭の出です。ラジオ・インタビューで利根川に対する思い入れを語ったように、この人はあくまでも北関東、坂東生まれであることを大事にしたし、あるいはそれから逃れられなかったとも言えるかも知れません。母親がピアノ教師ということもあってか、子供らしい遊びをしたことが殆どなかったと本人も言う程のピアノ漬けの毎日を過ごした。その甲斐あってか、少年はコンクールで入賞するほどに上達していき、一時は、足利周辺で板橋少年を知らない人は無かったというくらいのものだったらしい。国立音大に同付属高校から進んだ後、中村誠一、古沢良司郎、本田竹廣(当時は竹広)等の影響もあってか、ジャズに惹かれて池袋周辺で活動を始めている。この時期に聴いた「Inception/ McCoy Tyner」が、その後のこの人の演奏活動に大きな影響があった、という説はそのとおり受け止めて良いでしょう。その頃のことを本人が、実はジャズのことをよく判っていなかったんだけど、「とにかく汗水たらして、力いっぱい自由にピアノを弾くことが楽しくてしょうがなかった。」(「Rise and Shine」の自己紹介から)と言っていますが、この辺が根っこなんでしょうか。
プロ活動
- 1971年に大学を卒業するや否や、同郷のジャズの偉人、渡辺貞夫に誘われて、当時最高のバンドであった彼のクインテットに参加している。その後、73年峰厚介クインテット及び今村祐司クインテット、74年日野皓正クインテットで活躍した。さらに75年の初夏に岡田勉と渡米してから、77年森山威男カルテットに音楽監督として参加したり、その間も自己のバンドで演奏をした。78年に新宿ジャズ賞を贈られていることも書いておきましょう。この時期に顕著となった日本人ジャズの勃興については、別項に纏めました。また、この時期のことも含めたご本人の思い出話がミュージック・バードで2006年の3月6日に放送されており、それがCDRで「板橋文夫 Talks: 俺の原点、渡良瀬、本田竹広、、、」としてミックス・ダイナマイトから頒布されたことがあります。
デビュー盤
- いわゆるレコードになったということでのリーダー・デビュー作は「濤(とう)」(76年4月)であり、一時相当に活動が盛んであったフラスコというレーベルを通じてのことであった。墨絵かと思わせるタッチで、青みがかったジャケットのLPから流れ出る中堅ピアニストの熱のこもった演奏に感動した記憶がある。しかし、邦人ジャズの扱いは未だしの段階であり、たとえば、かの「一関ベィシー」の音でこの盤を聞きたいとリクェストしたが、菅原さんはボソッと「無い」と答えるばかりでした。しかし、何枚かのリーダー盤の発売が続くにつれて、ライブでの客の入りも多くなり、この人の熱く、かつ人の心を揺さぶる演奏に対する評価は確立するに至った。と思われる。この時期には、ピットイン、アケタ、今は無き下北沢T−5、横浜エアジンなどに出演する板橋さんを聞きによく通ったものでした。(アケタでのライブについては別項に書きました)。その間、自己のトリオのほかに、ホットセッション、フォーサウンズなどのグループ活動も盛んに行っている。また、相性のよさが容易に想像できる「Elvin Jones' Jazz Machine」にも参加した実績がある。森山、古野両氏のことは、別項を立ててあります。
映画音楽
- また、1979年には柳町光男監督の「19歳の地図」という映画のサントラも担当しており、これは最近DVD化されました。これは中上健次の小説の映画化で、映画自体は人生の目標がまだ定まらないのに、現世への不満だけが膨れ上がってくる新聞配達の若者を描いています。板橋さんの演奏が主題曲、Alligator Dance、Goodbye等で聴けますが、映画を通じて流れるというやり方でなく、時折入ってくると言う形式なので、板橋ファンとしては生煮えにされている感じがあります。しかし、ラストシーンで板橋さんの「Goodbye」がかぶさるという、ファンならぜひ見るべき設定です。また、台湾のスタン・ライ監督の映画「暗恋桃花源」の音楽を梅津和時と担当している。1994年には、萩庭貞明監督「さまよえる脳髄」と、台湾のスタン・ライ監督「紅蓮會」の映画音楽も担当しています。1998年には、香港・日本合作の「孔雀、Away with Woeds」という映画の音楽も担当しています。これは、例の浅野忠信クンの出ている映画です。
アジア、アフリカへの傾倒
- その後、板橋さんは、ひょっとすると「渡良瀬」などの曲の発想において芽生えたのかもしれない「土着」に関する傾倒を深め、「いわゆるジャズ」の既成概念にとらわれないジャズを模索し始め、それらの地域における音楽家との共演が多くなります。そこでその後の板橋さんのジャズの方向を決め、音楽の幅を広げることとなった模索は、「ジャンル分けとは無縁の全人間的な音楽の追求」とでも言うべきものではないかと思います。そういう路線は、日本人が取り上げるジャズとしての音楽的な必然性が認識されたようで、世界的に見ても一定の評価がされています。1993年にはPittin Musicを離れてMix Dynamiteレーベルを立ち上げて、前年のライブ4枚を一挙に発売するという快挙がありました。Nelsonなりの解釈では、Mixとは既成のジャズの概念を超えた全人間的な音楽を目指し、具現したいということの現れであり、Dynamiteは言うまでも無く、どんな音楽であれ、それを演奏するときの情熱の規模と量に他ならないでしょう。その後崩した体調も持ち直し、最近作ではNorth Windあり、「燦燦」ありと元気そのもので、6月の発売記念ピットイン・ライブでも暴れまくっていたというから、ご同慶の至りです。秋には、アフリカ・セッションというのもやっている。横浜ジャズフェスでの活躍も聞こえてきています。
e-板橋
- 試しに、「板橋」でネット検索をしてみると、凄いものでたちどころに500件ものヒットが出てきます。そうかも知れない、とは思っていましたが、日本国中津々浦々に、熱い板橋ファンが居て、それぞれの人なりの「思い入れ」を地道に発信されていることを、改めて確認しました。ライブのスケジュール及び「良かった」という感想が多いのですが、主催がジャズバーなどのそれ専門の所以外に、公共的な施設・小中学校などが見受けられるのは、板橋さんの足跡を如実に物語っています。有名な逸話ですが、彼の演奏を聴いていた小学生がフリチンで踊り出したことがあったそうです。流石に分別もついたNelson等には出来ない芸当ですが、しかしジャズのジャの字も知らない子供が、そうしたくなった、そうでもしないとその興奮を収められなかった、その気持ちは我々となんら変わることは無いと思います。ジャズのお勧めCDを挙げるサイトなどで、板橋盤を激賞しているのも結構あります。恐らくは板橋さんの生徒さんであろうかと思われる方のサイトで、板橋先生の教え方について感謝を述べておられるものもあります。板橋専門の掲示板には、ご本人が時々顔を出されているようですが、その他の掲示板でも「ライブで感動した」という投稿が多くあります。そういう状況なのに、屋上屋を架する我がサイトでの板橋セクションの追加はどうかとも思いましたが、このサイトならではの他の盤、名曲とのリンクは他にはなく、鳥瞰的に板橋さんを捉えられるし、また極私的な板橋ピアノ観もあるので、まぁ良いかと始めました。
- もはや、暴れん坊の板橋さんも50代に入り、今後も今の路線も含めたジャズの世界での活躍が、引き続き期待されます。
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