湯煙の立つや夏原狩の犬 --歌詞は大事か
- 「歌詞は大事か」についてまたまた考えてしまった、というお話です。
「スキャットの魅力と限界」へのコメント
- 以前に、スキャットの魅力と限界というメモで、歌詞の重要性について触れたのですが、これは中々深い問題のようで、何人かの方からコメントのメールを頂きました。特に、「それほど歌詞は大事だと考える人がいます。スキャットをやるからには、この言葉の重さに耐える覚悟も必要です。そして実は、それに価するスキャットは、それほどには見当たりません。」と書いた部分は、言い過ぎじゃないのとの指摘もありました。確かに、意味のある歌詞の、その意味を伝えるという事を重視するのか、あるいは歌詞は歌詞で重要ではあるが、その曲の旋律・和音をさらに楽しむということを重視するのかは、分かれ目かなとも思えます。
楽譜と歌詞
- 歌曲は、楽譜と歌詞があり、それらはセットになっています。どっちが先に出来ているかは、色んなケースがあるようです。通常はセットになって世に問われるのですが、曲が先のものもあり、歌詞が先のものもあります。そして、インスト曲発表後数年を経て、良い曲だから歌詞をつけて唄おうとか、良い詩があるんだけど曲をつけて唄ってみようとかいう場合も結構あります。セットになってしまった後は、やはりあの曲にして、あの歌詞があるという風に考えるのが普通でしょう。今は、結構字余りが受け入れられていますが、昔の曲は旋律と歌詞の抑揚関係はきちっと守って作られていました。The Very Thought of Youという曲があったとして、やはりあの旋律を聴くとつい、「...And I Forget to Do...」とか、「...The Mere Idea of You...」と続く歌詞が口に出てしまうものです。曲と歌詞が不可分になっていると言えば良いのか、あるいはそういう総体として曲を聴くのがNelsonは好きだ、ということでしょうか。
歌詞が判らなくても、、、
- でも、大好きなEstate、「夏」ですが、イタリア製ということもあってか、未だに歌詞を知りません。歌詞を知らなくても、良い唄だと思いますが、どんな歌詞か知りたい気もします。別の例では、例えばファドの「暗い艀(はしけ)」も良い唄で、大好きです。でも歌詞を知りません。イヤ、インスト曲を聞いたことはなく、いつもヴォーカルですから、歌詞を知っていることになるのかもしれません。少なくとも、「歌詞を聴いたことがある」には違いないんですが、判らんのです。アマリア・ロドリゲスの唄を楽しんでも、如何せんポルトガル語が全く判らず、和訳の歌詞を見た記憶もありません。それでも「テシキシ、、、」なんとかいう断片は耳に残っています。これは取りも直さず、歌詞が判らない場合に、その曲の全体ではなくともその一部、あるいはエッセンスは判っているという事でしょう。まぁ、その曲を誤解して気に入っている場合もあるかも知れませんが、それも含めて、その曲が好きなうちに入るのではないかと思います。
そこで、湯煙の立つや夏原狩の犬
- そこで、急に「湯煙の立つや夏原狩の犬」と言うことになります。御存知無い方もいらっしゃるでしょうが、これはElvis PresleyのHound Dog、即ちYou Ain't Nothin' but a Hound Dogを聞いて、「こりゃぁ、俳句になるじゃン」と茶化したものです。「You Ain't Nothin' but a」は、聞きようによっては「湯煙夏バラ」と聞こえてしまうからです。読み手というか、作者は、役者にして監督の伊丹十三、上記作句の頃には、まだ伊丹一三でした。伊丹さんの著書を読まれた方はよくお分かりでしょうが、この方も物事を極めるのがお好きです。沢山の優れたエッセィを書かれた中に、この「湯煙の、、、」を紹介した部分がありました。その前後は、「日本人歌手が歌詞を大事にしない」という文脈でした。そのエッセィで、伊丹氏は、今は大制作者、当時は人気歌手の飯○さんの唄を茶化しています。当時、「ルイジアナ・ママ」という曲がヒットしていました。米国のヒット曲に和製の歌詞をつけて唄うと、昔は結構ヒットしたものなのです。その曲の歌詞末尾に「From New Orleans」というリフレィンがあるのですが、どう聞いても「ロニオリ」と唄っているとしか聞こえない、と書いておられました。「元の歌詞に思いを致した上で、もっとちゃんと唄え」という訳です。「その伝で行くのなら、こうなっちゃうよ」という冗談として、どうせ日本風にやるなら、「湯煙の立つや夏原狩の犬」というところまで徹底したらどうなんだ、と揶揄されたものです。
「Sweet Heart」を「スィーハー」で済ませる
- 英語の歌を歌われる歌手でこれをやられると、Nelson等はよく気付いてしまうのですが、「Sweet Heart」を「スィーハー」で済ませる場合があります。これは実にぞんざいにNelsonには聞こえてしまって、何とも居心地が悪くなるのです。「スィートゥハー」と最後のTを省略するのでも本当はイヤなんですが、全部のTを省略されると気持ちが悪くなります。御本人の唄の品が、これをやると途端にガクッと落ちます。これは、しっかり発音している人の唄と較べると、直ぐに違いがわかります。しっかり発音してあると、正に恋人を大事に思っている、その情感の移入が唄に現れて、聞き手をしっかりと撃ちます。でも、「スィーハー」で済ませてしまうと、それはタダの馬鹿です(失礼)。それでは、その曲が泣くし、歌手の格も落ちます。折角の恋歌なんだから、心を込めて唄ってやってくださいョ。無論、「Sweet Heart」は例に過ぎません。長音の後の、同音程での子音の発音に共通の事です。ある時、歌手のレッスン風景を見たことがありますが、声楽の先生が「そこ、唄い難かったら、スィーハーで行きなさい」、と指導しているのを聞いて呆れました。無論、その歌手がその後立派な歌手になったとは、ついぞ聞きませんでしたが、、、
まぁ、色々とあるわけですが、、、
- ということで、歌詞が判るに越した事は無いけど、歌は歌詞だけじゃないから、旋律だけで興味を持っても何にもおかしくは無いのかもしれません。現に、アドリブをする時には歌詞なんか全く関係ないよ、と広言している日本人ジャズメンの話を、最近ネットで読みました。それを、アッケラカンとおっしゃっていました。ということにも思いを馳せれば、「聞いて楽しければ、他人がどうこう言うのもお節介だ」と考える事が出来、Nelsonも少し言い過ぎたかな、と反省しております。でも、でも、、、歌詞と一体になって、ゆったりと噛み締めるように情感を込めて歌い上げられるバラードは、ヴォーカルであれ、インストであれ、Nelsonの最も好む所であります。
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