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EvansのVanguardライブを聴いていた14歳の少年
--Richie Beirach--
  • Evans系と呼ばれるピアニストは多いが、Richie Beirachもそれを前面に押し出している、というお話です。
    EvansのVanguardライブ
  • Evansが自己の原点であるトリオを最良の形で世に問うた、1961年6月25日(日)のVanguardにおけるデビュー・ライブは、彼が最も愛したScott Lafaro (b)と、相性のよさでも抜群のPaul Motian (ds)とを得て行われたものです。その記録は、Waltz for Debby、Sunday at the Village Vanguard、More from the Vanguardの3枚で聴くことができます。最も克明な気録としては、The Complete Live at the Village Vanguard 961もあります。Bud Powellの伝統を生かしつつ、更にそれを越える領域に果敢に挑戦して成功しており、実に何とも新鮮なピアノトリオの演奏として、夙に有名です。世に多いEvansの熱狂的なファンにとっては、「原典」あるいは「聖書」と言っても良く、発売当時から繰り返してジャズのベストテンなどに必ず選ばれる人気盤となっています。Evansは、その後もこのThe Village Vanguardを根城化して、多くのライブ盤をここで何度も、何度も録音しています。そして、彼は死の直前にもここでライブを行い、それは6枚にもわたって聴く者を彼独特の美の世界に誘う、素晴らしい作品となって残っています。その初回のThe Village Vanguardというクラブに、なんと14歳の少年がモグリ込んでいて、彼のピアノトリオを聞き、2,3言言葉も交わしていた、というのです。御存知のように米国は酒類が供される場所への未青年の入場を厳しく制限しており、14歳では表立っては入場できないのです。それなりの監視の眼を掻い潜って、14歳の小僧っ子がナマEvansのデビュー・ライブを聴いていたとは、、、
    14歳の少年
  • Richie Beirachは1947年生まれで、Evansよりも18歳年下です。6歳からクラシックピアノ一筋に訓練を受けていたようですが、10代半ば頃にRed GarlandのBilly Boyを聴き、その後Lennie Tristano、Bud Powell等も聴いて、ジャズに興味を抱くようになったようです。だから、年長の友達に連れて行ってもらって記念碑的なライブを聴くチャンスに巡り合わせたのですが、まだその時,この14歳の少年はジャズをやろうと決めていたわけでもなかった、ということです。当時はNew Yorkに住んでいたので、60年代のモダンジャズを切り開いたMiles Davis、Thelonious MonkそしてOrnette Coleman等を聴く機会があって、幸運だったようです。
    The Village Vanguardでのライブ
  • 多くの方が既に上記ライブ盤をお聞きでしょうから御承知の事と思いますが、この時のVanguardの雰囲気は音楽を聞くに適していたとは言い難く、正に喧騒の中で演奏が行われていたようです。その喧騒は録音されたレコードにも、明瞭な形で残されています。面白い事に、一部の熱狂的なファンは「食器がカチャカチャ触れる音」、「電話のベル」、「恐らく女性と思われる嬌声」等を、何故か「この素晴らしいライブが行われた現場の雰囲気が良く出ている」と愛でる始末です。中には、オーディオの試聴にもこの録音を用いて、「後にこの店を訪れて納得した、その天井の低さがよくレコードにも現れているから、凄い盤だ」等とのたまわって居られます。別にそれは良いんですが、しかし演奏している本人達には迷惑だったようで、特にEvansは録音の行われた週末、「特にマチネー(日曜の午後のライブ)がひどかった」とBeirachにこぼしていたそうです。というのも客の入りが少なかった「ウィークディは、結構雰囲気は良かったんだ」そうですから、、、しかし、Evansらがそういう風に感じつつ演奏していたものの記録が上記盤に他なりません。そして、それが名盤としてその名も高いのですから、これ即ち、「芸術」をやる側と鑑賞する側との間の、「本来はおかしいけれども、有って不思議ではない裂け目」の好例でしょう。気分も調子も良かったからといって大傑作が出来るとは限らないし、気分が最悪でも名盤は出来ちゃうんですねぇ。
    BeirachとEvansの交流
  • 上記したようにBeirachとEvansは、Vanguardライブの時に2,3言言葉を交わしたようです。しかし、会話といっても、Beirachはまだ14歳で、年端も行っておらず、Evansを立派な大人、かつプロのピアニストとして見上げている状態でした。従って、Evansに「楽器は何をやっているの」と聞かれて、Beirachは「ピアノです」と答え、Evansが「練習。練習する事と、よーく考える事だね」と励ますという程度の事であったそうです。その時はそれだけのことで終わりました。それ以来Evansに入れ込んでまっしぐら、とならなかったのも、14歳と言う年齢からしてみれば、無理からぬところでしょう。その後、ジャズがある程度判ってきた18歳の時に、Evansのレコードを聴く機会があり、Evansの繊細で、知性的な演奏にのめり込んでいくようになった、ということです。そしてBeirachは、ジャズピアニストとして、相当の評価を受けるまでに成長します。いわゆるECM風なピアノな訳で、何枚かのCDが評判になり、Nelsonも少しは持っています。70年代にミシガンでのコンサートで、BeirachはEvansの前座を務め、初めてピアニストとして出会うこととなります。それ以来二人は仲がよくなりますが、Beirachが「憶えていますか、僕もあのVanguardライブの時に聴きに行っていたし、あなたと話しもしたんですよ」と訊いても、Evansには全く覚えがなかったようです。Beirachは、「14歳の時とは顔、形も相当に変わってしまったから、憶えているわけなんかないョ」と言っていますが、それ以上に二人の年齢差は大きく、自分のギグにたまたま忍び込んだ小僧のことを記憶に止めることなど有り得ないことでしょう。そうは言っても、その後の数年間、二人は親交を深めるようになりました。そして、New JerseyのEvansの家で、彼のピアノの前に二人で座り、お互いに相手の演奏を聴く、というほどに親しくなっていたようです。
    Evansとの別れ
  • Evansが、死の間際まで演奏活動を継続する事に固執したことはよく知られています。時系列では、1980年の6月初めが恒例のVanguardライブ (Warner Brosに6枚分の録音)、その後欧州楽旅 (West Windに1枚録音)があり、帰国して直ぐの8月末から9月7日(日)まで、西海岸のKeystone Korner (Alfa Jazzに8枚録音)に出ています。再びNew Yorkに直帰し、8日の月曜日を挟んで2日しかない9日(火)から、最後のFat Tuesdayギグとなります。全く、死期の迫った人のスケジュールとはとても思えない、ハードな日程だったようです。Fat Tuesdayには、9日、10日と出演したのですが、10日の水曜日が最後の演奏となり、その後はもう舞台に立てる状態では無くなってしまいました。木曜日以降のFat Tuesdayには、Andy Laverneが、全てトラに入ったようです。そして何と不思議な事に、BeirachはJohn Abercrombieと一緒に、この最後の水曜日の演奏を聴きに行っていた、とのことです。Evansの健康状態は、はっきり分かる程にひどかったようで、これはMarc Johnson等も別の所で証言しています。しかし、Evansは演奏し続けることにこだわり、医者には行かなかった、といいます。その気迫のこもった演奏意欲がもたらした事なのか、Evansは信じられない程素晴らしいNardisの演奏を聴かせたそうです。晩年におけるEvansとMarc Johnsonとのinteractionの素晴らしさは、Nelsonも手持ちの1980年のVanguardライブ (Warner Bros)や、Keystone KornerでのThe Last Consecration (手持ちは2枚物ですが)で、大いに興奮させられたのですが、その正に最後の、最後のBeirachが聴いたNardisの演奏は、さぞ凄い演奏だったのでしょう。
    ということで、、、
  • 正に世に出たばかりである61年のLaFaroとのVanguardにおけるデビュー・ライブと、死の数日前のFat Tuesdayにおけるラスト・ギグの両方を、Evans系を自認するRichie Beirachが聴いていたことの不思議さに撃たれた、というところです。

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