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The Heath Brothers

  • Percy Heath(1923年生まれ)、Jimmy Heath('26)、Albert Heath('35)の3兄弟は、Phillyのジャズ社会でもピカ一の兄弟ジャズメンです。兄貴分のPercyだけが北カロライナ州生まれですが、3歳下のJimmyから下はPhillyっ児ですから、Jimmyの生まれる直前にでも転居したのでしょう。親父さんがクラリネット奏者だったんで、子供にも楽器をやらせていたら、3人が3人揃って、世に名を知られるジャズメンに育ったんだから、凄いですね。
  • 長兄のPercyはベーシストで、数多の名盤に参加しており、拙サイトでも40枚近くを好演盤として採択している程で、ハードバップ初期の偉人と言えます。アルコ弾きの時に弓を取り出し易くするために、ウッベの胴の脇に弓袋をくっつけると便利だと工夫したのは。彼が嚆矢です。クラシックと違って、ジャズではアルコ弾きは滅多にやらないけど、アイデアが浮かんでアルコに切り替えたい時に、周りを探さずにスッと出して使えるので、至極良いアイデアです。(でも、この人自体はあまり使わないらしく、アルコ弾きを披露中の画像は見つかりませんでした(^^; また、あのMJQの名演「Django」の初演時に、即興で4小節くらいの弾むリフを元テーマに戻る時の合図も兼ねて考え出したことでも、有名です。このリフは覚えおられる方も多いでしょうが、原テーマ旋律の一部であるかのように、何とも絶妙な雰囲気で、演奏にしっくりと嵌まったので、耳目を集めました。後の殆どの演奏で、後輩がこの先輩への敬意を以てこのリフを引用することが、今ではデフォルトになっているのはご存じのとおりです。
  • 真ん中のJimmyはテナーで、地元Phillyでは早くから名が通っており、1946年には20歳にして自己名義のバンドを持ち、John Coltrane、Benny Golson、Ray Bryant、Johnny Colesと言った若手を、ドンドン使っていました。このバンドを数年で解散したのち、Dizzy Gillespie楽団に入ってからはもう全国区のジャズメンとなり、滑らかながらアイデアに満ちた演奏をして「Riverside」レーベルの花形でした。作曲もお手の物で、Nelsonの個人的なお気に入りは、何ともキャッチィな「The Time ant the Place」です。その後も多くの若手に演奏の場を提供したり、スクールを持ったりなどして、支援に努めた功績があります。Lee MorganがPhillyの先輩への挨拶を兼ねて、そのスクールに顔を出して昔話に興じた後、その足で「Slug's」でのギグに行った運命の日に、痴話喧嘩から射殺されるなんてこともありました。
  • 末弟のAl、愛称「Tootie」はドラムスで、まぁ、ちょっとパタパタし過ぎ、軽過ぎという世評ですが、Billie Higginsと通底する面があり、フットワークが良く、重くなり過ぎ無い良さもあります。60年代半ばと70年代との、2度の滞欧中にはあのカフェ・モンマルトルのハウス・ドラマーとして重用された縁もあって、Dex叔父さんKenny DrewTete Montoliuのギグやレコーディングに参加したので、録音が多数残っています。
  • choiceAlが帰米して来て、MJQも解散したからPercyも時間が取れて3兄弟が揃ったので、1975年にこの3兄弟は「The Heath Brothers」というグループをPhillyで結成しました。当初は、ピアノにStanley Cowellを入れたカルテットで、たしかStarat Eastに何枚か良いのがあった記憶があります。
  • 所で、この3兄弟の話からちょっとズレますが、Al HeathとNina Simoneとの共演に関するPhilly Connectionについて、是非触れておきたいので、一寸長いですがメモしておきます。この「Philadelphia出身のジャズメン」にNina Simoneの項目を立てるどうか迷ったのですが、結局そうしませんでした。実は、ちょっと辛い話があるのです。北カロライナ州生まれのNinaは、幼少の頃からピアノに才能を発揮し、一度はNYCに移ってジュリアードに行ったりしていました。所が幸運なことに、故郷の町がNinaのために集めてくれた募金で、Phillyの由緒ある音楽学校「Curtis Institute」に入れることになり、一家全員でPhillyに転居しました。所が、その学校がドタキャンをして、Ninaの入学を認めません。内報者がNinaに、「入学不可の理由は、あなたが黒人だからなんだ。」と教えてくれました。Ninaは烈火のごとく怒ったのですが、如何とも出来ません。
  • それでもNinaは音楽を捨てずに、ナイトクラブなどで弾き語りを始めます。しかし世間の目は冷たく、世の中からは水商売のオンナと見られてしまうことが予想されます。母が聖職者だったこともあって、家名にキズを付けないようにしたかった彼女は、本名のEunice Waymonを捨てて、Nina Simoneという芸名を名乗ることにします。「Nina」は彼女のあだなでしたし、「Simone」の方はあのフランスの不屈の名女優、Simone Signoret(たしかイヴ・モンタンの妻の筈)を慕っていたから使わせて貰ったのです。弾き語りでも才能を示したNinaは、直ぐに「I Loves You Porgy」で全米デビューを果たし、ナント、これがトップ40に入る大ヒット・シングルとなりました。
  • そして1958年に、そのヒット曲も入った処女LP、右掲の「Little Girl Blue / Jazz as Played in an Exclusive Side Street Club」を出すに至ります。その処女作で弾き語り・トリオを組んだのは、両方ともにPhillyっ子である、ベースのJimmy Bond、ドラムスのAl Heathなのです。このLPは、それまでのNinaの直截な表現に加えて、初々しく、可愛く歌い上げる面も見せて芸に幅が増したこともあって、ヒットLPとなりました・・・とまぁ、色々あったけど、その後のNinaはご存じのように女性ヴォーカリストとしてトップの地位を勝ち取ります。
  • PhillyはNinaに取って辛い街だったのですが、その街のジャズメンとの出会いを通じて女性弾き語りの第一人者への道を進むこととなった・・・という三遊亭円朝の人情噺「文七元結」(ぶんしち もっとい)を地で行く、良い話でしたねぇ、、、
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