- Tommy BryantとRay Bryantの兄弟に関するメモの前編です。
- Tommy Bryant(1930、兄)とRay Bryant(1931)の兄弟は一緒に録音した盤もあり、Philly生まれの兄弟ジャズメンです。Bryant一家の係累には音楽家、特にジャズメンが多くいます。彼の母と同じく、彼の姉のVeraも、ゴスペルのオルガニストで音楽教師もしており、別項に書きましたがKenny Barronにピアノを教えたこともあります。一番下がLenで、ドラムスとヴォーカルをやる人です。Ray Bryantは6歳からピアノの訓練を受けていたようです。
- この一家は、RobinやKevin等を輩出したEubanks家と姻戚関係にあり、その係累を辿ってみると、オルガニストのVeraが結婚してEubank家の人となってからの子供は、殆どがジャズメンです。兄貴のRobinはトロンボーン奏者、弟がKevinでこれはギタリスト、その下がDuaneでトランぺッターです。もう二人も音楽家だそうです。これらすべての人がPhillyっ子だと言うんですから、アメリカはスゴイです。
- 発売はされなかったようですが、14歳の時に既にJimmy Johnson楽団で初録音を経験しており、その録音にはJohn ColtraneやBenny Golson、そして兄貴のTommyも参加していました。その年に、Rayはプロとしてジャズで稼ぐために必要な「ユニオンの資格証」を貰う試験を受けています。その試験官であったMike Collinsは、その場で彼を雇って自分のバンドに入れました。その2、3年後に、あのTiny Grimesがやっていたアイリッシュ装束で演奏するバンドに雇われて、49年にこのバンドで録音をした演奏が、Rayの公式の初録音となっています。
- RayとTommyにはピアノトリオを組んで一緒に録音した盤が何枚かあり、その中では「Ray Brayant Plays」盤が演奏が素晴らしく、「Little Susie」や「Jo Jones Trio」も良く知られています。兄弟メインの録音で無ければ、同じPhilly出身のジャズメンでも、マブダチ中のマブダチと録音した「傘のゴルソン」の「枯葉」なども好きな方が多い演奏です。50年代には、市内のBlue Noteクラブのハウス・ピアニストを長く務めていて、Charlie Parker、Miles DavisそしてSonny Rollins等がギグでやって来ると、いつもその伴奏をしていました。彼らから「NYCに出て来いよ」と誘われて引っ越しをすると、Prestige等のレーベルで彼らの多くの名盤に参加したのでした。
- その頃は、昼は7番街の「Metropole」カフェでメインストリームの雄、Coleman HawkinsやRoy Eldridge等のギグで演奏し、夜になると友達のGolsonやDonald Byrd等と「Five Spot」に出演するのが常でした。忘れてはならない企画ものとしては、Dizzy Gillespie、Sonny Rollins、Sonny Stittという3人の大物を組ませるVerve盤に二人で参加した「Duets」、「Sonny Side up」の2枚は、昔から名盤として有名です。この頃が一番忙しかったようで、2年ほどCarmen McRaeの伴奏をしていましたし、Dizzy Gillespie楽団に入ったり、兄のTommyと一緒にJo Jonesトリオにも参加しました。その時期に、John Hammondが彼のトリオの盤をColumbiaから次々と出してくれ、「Cubano Chant」(1956)、「Little Susie」(1959)、「The Madison Time」(1960)等のヒット曲を作曲しましたし、1967年にはBobby Gentryの「Ode to Billie Joe」をカバーした演奏が大ヒットしたのでした。
- Rayには自己名義の盤が50枚程あり、サイドメン物も含めると100枚近い参加盤がある筈で、拙サイトでも20数枚は好演盤に採択しています。Rayは、2011年に79歳で他界するまで、本線モダンジャズ屈指のジャズ・ピアニストとして大活躍しました。
- Rayには自己名義の盤が50枚程あり、サイドメン物も含めると100枚近い参加盤がある筈で、拙サイトでも20数枚は好演盤に採択しています。Rayは、2011年に79歳で他界するまで、本線モダンジャズ屈指のジャズ・ピアニストとして大活躍しました。以下は、80年代末頃に受けたインタビューでRayが話したことです。
- 「僕がPhillyで育った頃にジャズをやっていたのは、Heath3兄弟、Lee Morganだった。それとClifford Brownかな・・・彼は20マイルほど離れたDelawareに住んでいたけど、結構よくPhillyに顔を出していたんだ。子供の頃から、兄貴のTommyやBenny Golsonとは互いの家に行き来しながら、よく練習をしていた。僕は高校時代には余りJohn Coltraneとの付き合いが無く、良く付き合うようになったのは、彼が海軍を除隊して以降の話だった。ある晩、いつものバンドの仕事に行くと。彼が居たんだ。「あいつ、誰だっ?」て聞くと、「海軍から除隊して来た奴で、アルトを吹くんだ。」って話だった。その頃にしては珍しく、Charlie Parkerの色合いは無く、どこか独特な味があったな。・・・
- 「いつからピアノを始めたってことだけど、6歳になった頃に、近所のピアノの先生の所に行けって母に言われたのが、ピアノをやる切っ掛けだった。それ以来、Benny Golsonとは遊び友達で、Golsonのママはヴォーカルをやるので、皆で週末はどっかに顔を出してジャズを演奏していたよ。Golsonは、そんな年齢でも才能があることは明らかだったね。彼が15で、僕の兄貴のトミーは14、僕は12歳だったよ。6コ上のJohnny Colesも最高のトランぺッターで、色々と教わったなぁ。良くジャム・セッションをやるんだけど、僕の家の町内に彼んちがあったこともあってよくやったね。僕たちは北Phillyの出で、南には、PercyやJimmyのHeath兄弟が居たし、時々はNYCからCharlie Rouseなんかが来て盛り上がっていたな。その頃から北のRochesterやSyracuseなんかに遊びに行ってジャズをやっていたんだ。国境を越えたトロントにも良く顔を出していて、カミさんとはそこで知り合って結婚したんだ。そんなことになるなんて思わなかったけど、もうずっとトロントが僕の本拠なっている。トロントで最初にした仕事は、Ahmad Jamalさんの後を引き継いでピアノを弾いた時だった。・・・
- 「ソロピアノの盤を出すようになったのは、スイスのMontreuxジャズ祭での録音が切っ掛けで、トロントに戻っても「Cafe Des Copains」なんかでソロ・ピアノを弾いていた。ソロはクラブの雰囲気やお客さんの顔色を読みながら雰囲気を作って行かなきゃならないから、ピアニストとしての負担が大きくて、結構大変な仕事なんだ。調子が悪くっても、出来が悪いのをベースやドラムスのせいには出来ないだろう? でもどの曲を、どんなふうに演奏するかという自由があるし、何と言ってもギャラを分配せずに、全額家に持って帰れるのは魅力だよ。・・・
- 「中学時代に、Philadelphia音楽アカデミーで聴く機会に恵まれたのが、Art Tatumの演奏だった。どこをどう手本にしようと思ったなんてものじゃなく、ただただ素晴らしくて降参したよ。バンドで言うなら、Modern Jazz Quartet、Ahmad JamalのトリオにVernell Fournier(ds)とIsrael Crosby(b)が居た時代かな。MilesのバンドでPhilly Joe、Coltrane、Cannonball、Jimmy Cobb、Bill Evans、Wynton Kellyなんかが居た頃、特にRed Garlandの曲をやったのは良いね。家では、Art Tatumを聴いたけど、クラシックも聴いていて特にHorowitzは好きだった。作曲家では、John Lewis、Billy Strayhorn、Ellington、それに勿論Monkも良いね。・・・
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