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Coltrane、Evans、Miles、Chet...漬け

  • 現時点で、2千数百曲の演奏が入ったHDD式MP3プレイアーですが、ごひいきジャズメンの演奏が、やはりどうしても多くなります。Coltrane、Evans、Miles、Chet、Rollinsといったところは、少ない人で50曲、多ければ100曲近く入っています。ちょっと多いのかなと感じて、もっと精選するかと思っても、それ程は落とせません。やはり、そういう人の演奏が好きだということでしょう。
    「アーティスト聴き」
  • ところで、HDD式MP3プレイアーの聴き方として、特定のアーティストの演奏だけを聴く、という聴き方も出来ます。これがまた、興味深いのです。今チェックしてみると、おおどころは、Chet Baker(75曲)、John Coltrane(65)、Miles Davis(89)、Bill Evans(89)、Stan Getz(116)、Keith Jarrett(69)そしてSonny Rollins(70)くらいです。これらの中の誰かの演奏を「アーティスト聴き」でドンドンと何時間も聴いていくと、その人の世界にドップリとひたれます。これが、実にまた、新しい感興をもたらす経験となりました。「アーティスト聴き」は、ランダム聴きが良いようです。これは、スゴイと感じました。何もせずにじっと、数時間は、ある特定のジャズメンの演奏に、正にひたりっ切りになれます。何しろCDをかけ代えに立たなくて良いんですから、、、(そして以下に述べるように、結構興味深い示唆も与えくれるもののようです。)
  • どうにもこうにも、ただその人の演奏を連続して聞いている、それだけのことなのに、非常に面白い感興を覚えます。そこで、この感興は一体なんだろうか、と考えてみました。そして、どうやらこういうことなのかな、と思い至りました。
    通念
  • 世に、Chet Bakerならばこういう人、Keith Jarrettはこういう人というイメージというか、概念があります。Nelsonも、結構長くジャズを聴いていますから、それなりのことは頭に入っています。しかし上記の通り、そのChet Bakerなら75曲、Keith Jarrettなら69曲を、ブッ続けに聴いてみると、その通念と大分違うのです。最初は「何なんだろうなぁ、この感じは」と不思議に思いました。でもそのうちに、これは当たり前のことじゃないか、と考えるようになりました。選ばれた75曲、あるいは69曲は、Nelsonが「聴いていて心地よいだろうなぁ」、「これなら何時聴いても良いなぁ」、「取って置きだなぁ」と純粋に思って、選んだ演奏です。例えば「これはKeith Jarrettの節目になった演奏だ」とか、「この演奏におけるアドリブがジャズ界の認識を変えた」とかいう、「後付けの」理屈で選んでは居ません。一人でしか聞かないHDD式MP3プレイアー用に、正に個人の趣味の凝縮体として選択した演奏群、それがそこにあるのです。
    好きなものを並べただけ
  • そして、「Nelsonにとって、Chet Bakerとは何者なのか」、あるいは「Nelsonにとって、John Coltraneとは何者なのか」ということを考えてみました。ここにアップするような、言わば「原稿」ですか、そういう「書き言葉」で固定しようとするイメージが、一方にあります。書き言葉ですから、思ったことを書くとしても、一定の推敲のような過程も経ています。よく練られている(実際にそうかどうかは別にして)書き言葉は、過不足が無いように記述が纏まっています。でも、直感のような、生々しさはありません。演奏を離れて頭で考える過程が入りますから、どうしても新鮮な感動は薄れるのです。他方で、今話題にしているような、「取って置きだなぁ」という観点だけで、深く考えずに、直感的に選んだ演奏群が包絡線となって囲んでいるイメージというものもあります。2,3曲に止まらず、ある程度の曲数があると、包絡線も少しづつ体(てい)をなしてきますし、持って回った理屈ではなく、もっと直感的に選んだ「この演奏が好きだから、もっと何度も聴きたい」という演奏の集合体です。そういう演奏群を聴くことに身を任せていると、Nelsonが演奏という媒体を通じて捉えているそのジャズメンの世界が耳から体感できる、ということではないかという気がします。そして、特段の構造も思想も無く、ただ「好っきゃねん」ということだけで選んだ演奏の総体は、期せずして、NelsonのJohn Coltraneに対するイメージが、結構正確に具現化されたものとなっている、と言うのは言い過ぎでしょうか。好きなものを並べただけという、一見単純で、場当たり的で、正鴻をうがとう等と考えて居もしなかった営為でありながら、実は頭で、言葉で幾ら正確に表わそうとしても捉えきれない客体を、かえってしっかりと捉えてしまっていた、なんてことになって居はしないか、と感じたのです。
    ホントウの全体像とは
  • 以上のような感じ方は、Nelson固有のローカルな話であり、少し我田引水なのでしょうか。確かにそうかも知れません。でも、何人かのジャズメンの大量と言って良い演奏について、全く一人っきりでじっと聞き続けるということをHDD式MP3プレイアーで実際に経験してみての、これが偽らざる感想です。こういうこともあるのではないか、ということを、もう少し書きます。あるジャズメンが好きだとして、「そのジャズメンの全体像が知りたいなぁ。」と思うことがあります。でもそれは不可能なことなんだ、と日頃から思っています。全体像というものは実存であり、既にして、どこかにあるのではありません。「群盲、象を撫でる」の譬えどおり、百人居れば百通りの「全体像」があるのです。Nelsonという、同じ観察者に注目してみても、時間、空間が変われば、その人が抱く全体像は変わります。とすれば、上記のような「この演奏が好きだから、もっと何度も聴きたい」という演奏だけを集めて聴く方が、実はホントウの全体像に肉薄しているのではないか、と思います。無論、「ホントウ」は存在しない、という自己矛盾は承知しています。言いたいことは、頭で何かヒネくりまわすよりも、先ず聴く、それも何度も聴く、それが大事なんじゃないのか、ということです。
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