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McCoy Tyner、Minimal Musicそして埴谷雄高

佳曲の好演盤を聴き狂っているNelsonではありますが、その手のものばかり聴いているわけではありません。今日は一日中、McCoy Tynerを色々と聴き続けました。そこで、McCoy Tynerを聴いていていたら、Minimal Musicとの関連が気になった、というお話。
  • McCoy Tynerの音楽は、聴き始めると癖になってしまいます。「何んでやろなぁ」と考えていて、ふとインドネシアのガムラン音楽に思い当たりました。両者ともに、その演奏に身を委ねていると、肉体も精神も、何か自分のコントロールを離れてしまうところがあります。
    McCoy TynerのAfrican Villageを例に取ると
  • 例えば、今日午後になって聴いたTime for Tyner(BN CDP84307)におけるMcCoy Tynerの演奏でも、典型的な彼の特徴の一面が読み取れます。この人気盤は、ヴァイブにハッチャーソンを配したカルテットの演奏で、渦巻きの中心に彼の顔をはめ込んだジャケットが示すように、McCoyがアリ地獄を用意して、ファンを巣穴に引きずり込んで虜にする好演盤です。冒頭曲African Village等を聴いてみると、直ぐに分るMcCoyの特徴は、特定のリズムパターン、またはメロディ・フラグメントを、自分及びメンバーがそれぞれの役割において、音程を変えつつ執拗に繰り返し、更には敷延して行くことです。この単位パターンは、他の例では数小節に及ぶこともありますが、通常は1小節、数拍程度の、正に断片であることが多いようです。この断片が、下世話な言い方では「手を変え、品を変え」、繰り返されるというより、展開されて行くという表現の方が適切かと思いますが、それこそ千変万化して行き、それを聴いている我々は、その執拗な音の、寄せては返す、倦むことの無い漣に、身をもてあそばれてしまうことになります。これこそが、McCoy Tynerの真骨頂であり、熱烈なファンがいる理由ではないでしょうか。
    McCoy TynerのWeb(蜘蛛の巣)
  • このような演奏手法を採ると、当然、通常のジャズとは有り様が相当に変ってきます。いわゆるジャズのアドリブでも、今は数コーラスやる人がいますが、昔は1コーラス程度で、「手短に」起承転結を付けたソロをすることが良いとされ、その凝縮された完成度に人々は拍手をしたわけです。しかし、McCoyのやり方はそうではありません。同じアドリブという形態でも、彼のアドリブは周到に計算されているかのようで、即興、悪く言えば「泥縄」とは、かなり様相が異なるのです。即興演奏ではあるものの、螺旋を上って行くように、じわりじわりと聞く人の外堀を埋め、身動きできなくさせて、己の蜘蛛の巣の中に取り込んで行く、というものといえます。そして彼が開放してくれた時、我々はハッと意識を取り戻し、何とまぁ、不思議な気分であったのか、と賛嘆するに至るのです。Nelsonと同様にこの経験に魅せられてしまったファンは、クスリが切れると矢もたても堪らず、一人密かにMcCoy盤を取り出してアンプのヴォリュ−ムをそろりと上げて、あの禁断の魔境を今日もまた訪れようとするのです。そしてその半覚半醒の魔境に魅入られた人の不可思議な状態を、埴谷雄高が何か書いていたことを思い起こしました
    埴谷雄高の「闇の中の黒い馬」
  • 埴谷さんは、不眠症、「主義」等々の狭間で夢魔の跳梁する世界を描き続けた人と思いますが、上記著書においても、執拗に半覚半醒の境地を取上げています。McCoyの音楽と埴谷さんの作品が共に取り扱う魔境の不思議な魅力、そして、その営為の呆れるほどの執拗さにおいて、音楽と文学の違いはあれ、両者に相通じるものを感じます。繰り返し埴谷さんにより表現される半覚半醒の状況とは、次のようなものです。
    薄ぼんやりとした闇の中で、冷たさは感じない粘りのある水面に仰向けになすこともなく、なぜか浮かんでいる。目は閉じているように思えるが、不思議に自分が水に浮かんでいる様子が見えており、ということは目を見開いているということなのか、よくわからない。時折、何かの拍子で、体が更に沈み込む時があり、あぁ、今は全く水の中に沈み込んでいるのだなぁ、と頭のどこかで感じている。といっても、意識はぼんやりとしており、感じているのが自分かどうか定かではなく、沈んでいる人を観察しているのが自分ではないかと言う気もする。そしてまた、今はどうやら体が浮かび上がってきたようであり、もう頭も後頭部しか水には没していない。だから、もう息をしてもいいんだと気づくが、そう言えばさっきは水の中でも息苦しくなかったし、意識がぼんやりしていて、今やっと長い眠りから覚めたばかりのような気もする。
    このような意識のあり方に通じるものが、McCoyの音楽にある気がしてなりません。彼の演奏は当然もっと躍動的であり、埴谷さんが描写するようなもの憂げさとは対照的な面もあります。従って、Nelsonの連想は、両者がその精神の運動において通じるものではないか、ということに止まります。それでは、そのMcCoyの元気な面にも触れます。
    リズムの暴力
  • この種の音楽は、上記のような気分に引きずり込むところがあり、これは恐らく、メロディのなせる業だけではなく、リズムの持つ、ある意味で抗しきれない、従って狂暴な力も働いているのでは、と思います。音楽において、音の高低、即ち音程が大きな要素であることに異論はありませんが、もう一つリズムの特権的な力も大きいのではと思います。更に言えば、よく見かけるスィング感よりも、むしろそのようなリズムパターンの反復的な打音が、恐らく今もアフリカのジャングルの奥深くで鳴り続けているに違いない素朴なトムトムが秘める呪術性を帯びて、聴くものの三半規管に奇妙な麻痺を与えることの要諦を、McCoyは心得ているようです。すなわち、McCoyはこの種のマガマガしさを隠し持つ希有の人らしいのです。
    巣作りの技量
  • というように、彼の手法がそのようであるとして、もう一つ指摘しておくべきは、それを開花させてしまう彼の技量です。フリージャズでも、あるいは彼のような演奏の亜流でも、よく見かけるのが無意味な音の羅列です。これは説明しがたいところですが、断片の積み重ねという技法自体は結構やる人がおり、大抵の場合、それが「いい加減にしろ」と言いたくなるレベルに止まってしまっています。出始めの頃のMulgrew Miller、John Hicks等の演奏によく投げかけられた疑問符はこれです。確かに、一生懸命に弾いていることは判るが、それがどうしたの、という感想です。幸いにして、McCoyの場合はどうやら、選ぶ音に必然性がある、なしの正に境目に居るようなのです。あるに決まっている、とファンならおっしゃるでしょう。しかし、はっきりあるのであれば、それはそれで例がなくはない演奏です。正にその境目にいること、明瞭な意味と、無意味な雑音の境界に居続けることが、彼の矜持ではないか、とすら思うのです。それがどういう音選びであるのか、ピアノの弾けないNelsonには判りませんが、彼の音が生きているというのは、多くの人が認めるところです。そして、それは「ご本家」であることの証のようであります。
    Minimal Music
  • このように見てくると、McCoyの音楽は、適切かどうかは専門家でない身の悲しさで分りませんが、エリックサティ、ガムラン、ブライアン・イーノなどのキーワードで語られるMinimal Musicと通底する音楽ではないか、と感じます。これらの音楽もMcCoyの音楽と同じく、フラグメントの積み重ねによるある種の効果を狙っております。それは、イスラム建築に良く見るモザイクの意匠にも似て、めくるめく世界を提示してくれますし、ある場合にはこれをHealingであると感じる人もいるでしょう。これらの音楽は、普遍的にはなりえないにしても、一部で熱狂的に賞賛される、独自の、確固とした世界を形成しているようです。その有り様は、McCoyが相当の評価を受けつつ、しかし一世を風靡、とまではなってこなかった状況とも似ています。
    蛇足
  • ここに、Standards Plus/ Jim Snideroという97年録音の盤があります(本HPにも収録)。彼のアルトに、サポートがMike LeDonne(p), Dennis Irwin(b), Kenny Washington(ds)と、正に新人類による意気盛んな演奏です。冒頭に「君恋」が入っているというのも、Nelsonものの典型ですが、この曲を聞くと「ナニ、こりゃ、コルトレーンカルテットそのものじゃないの」と感じます。Jim Snideroはアルトですから、フロント楽器は違うわけですが、音域は別として、語法は全くトレーン流です。そして、他の曲ではそうではないのに、ルドンヌのピアノがこの曲ではマッコイのクリソツです。左手の分厚い低音に支えられて、右手の中高音はマッコイもどきの苦いフラグメントを繰り返し紡ぎあげていきます。ベースの運指もそれらしく、ケニーのドラムもエルヴィンを意識してないとは言わせません。したがって、全体としては音域の上がったコルトレーンカルテットになっています。ブラインドフォールドテストで、間違わずに答えを出すのは至難の業と聞こえます。しかし、、、しかし、何とも演奏が流麗です。新人類はテクが皆凄いですから、トレーン流を何の苦も無く披露します。この曲だけ聞くと、ポストコルトレーン一派の演奏か、と思わせるのですが、実は他の曲でのアプローチは全く別で、軽快なものもあります。つまり、新人類にとってトレーン流もone of themのスタイルとして消化され尽くしており、命懸けなんて思い込みは全く感じられません。時代、ですねぇ。百米走で世界新がでると、数年後の新人がそれをことも無くクリアするように、一昔前の「究極」が、今は「通過点」でしかなくなるという、人間の能力の果てしなさの歩みのように、ジャズにおいても次々と、新しい世界が広がっていくのを、堕落と見るのか、進歩と見るのか、とあらためて感じ入った次第です。

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