Booker Littleが洩らした一言
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Booker LittleがMetronome誌のインタビュアーに、時に調子外れのようでありながら、妙にしっくり来て、人を打つ彼の音選びに関して、次のような事を言ったことがあります。
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「僕は不協和音の可能性に特に関心がある。協和音は小さく聞える。不協和音は大きく聞える。沢山のホーンが居るように聞え、事実、その数が言えないこともある。陰影を色んな具合に付けることが出来る。不協和音は、こんな時の道具になる。」
- 「僕は、間違った音といういいかたがよく分からない。(I can't think in terms of wrong notes.) 」「間違った音なんてものは無い。重要なのはその音に至る過程と、その後の展開だ。」
- 「これからのジャズは、技術や理論ではなく、感情に重点を置くべきであり、言換えれば音楽における人間性、言いたいことを全て言う自由を重んじるべきだ。」
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彼の音は、耳なじみが悪く、苦いけど、(良い譬えがないけど)アユのうるかのように絶妙な味わいがあります。その時、彼に対するNelsonの妙な共感を支えているのは、(誤解されやすいかもしれませんが)この人は勇気を持って本当のことを言おうとしている、という感触です。
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「僕には言いたいことが沢山ある」として、巷間言われる「不協和音」であっても、その音が欲しいのであれば、それを使うことに躊躇いはない、という彼の発言には妙に納得させるものがあります。
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Booker LittleがMetronome誌のインタビュアーに洩らした不協和音についての発言は、彼が聴衆から、あるいは同僚から、今の音は何だ、と詰問されることが多かったからだと思われ、彼もそれを認めています。
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協和音は耳に心地よい。基本的なことを言えば(一寸古すぎることは認めるが)、jazzのアドリブでも、コード進行あるいはモードに基づいてリズムセクションが基本設定をして、ソロイストが曲想を膨らませていくのが、醍醐味です。しかし、確かに、協和音、あるいはコードによるアドリブにおける正確過ぎるアルペジオには、約束通りに整い過ぎていて、「音が小さく聞こえる」場合があります。
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これに対して、不協和音は、何よりも先ず耳が生理的に違和感を表明し、居心地を悪くさせます。しかしまた、こいつは何を言いたいのか、と聞き手の注意を喚起し、その挙げ句、おかしいけど何かしっくり来るなぁ、となることもあります。その時に、言わば、色んな人の言うことが同時に聞こえてきて、困るけど、でもこれも良い、という感じる場合があります。
- Nelsonに限って言えば、彼の演奏をいつもそのように肯定的に受け取ります。つまり、彼は変わっているけど、間違ってはいない、と感じるのです。皆さんはどうでしょうか。
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それがそうであるとしても、彼の音は、闇雲にこの変な音を出しているのではない、自棄になっているのでもない、止むにやまれずこうしているのだ、と言う切なさを有しているから、ある程度の人に受入れられ、かつ夭逝を惜しまれたのでしょう。
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それが本当に言いたいことであるとすれば、何も和音の調和等に拘泥することはない、という彼は傲慢でしょうか。無論、芸術家の真摯な制作態度と、その時その音がほしかったのだという必然性が無ければ、恐らく傲慢なのでしょう。
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詩で言えば、五七調、絶句・律詩、頭韻・脚韻等の定型詩という枠を付けた上での作詩が心地よく、かつ自然な詩人もいるでしょう。しかし一方で、言いたいことを書き下すと即ち、あるいは時に、不定型詩となる詩人もいるでしょう。我々の世代は、定型、あるいは調和音を(踏まえながらも?)、既に超えたはずです。
- そして例を挙げれば、取っつきにくい場合もある現代詩において、それまでに確立された形式、誰もが綺麗という用語を離れて、正に「自分の声」として、独自の表現が展開されることがあります。それをじっくりと噛みしめて出てくる味わいは、同時代人としての我々でしか賞味しえず、またそのような表現でしか伝達できない感興をもたらしてくれる、とNelsonは感じます。
- 彼にしてみれば、コードによるアドリブがあるとしても、時にそれを突き抜けた、あるいは外れたアドリブでしか表現できないこともある、と言いたげであり、実は盟友であるEric Dolphyも偶然に同じ道を辿る人であったらしいのです。
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そんなこと先刻承知という方もおられようが、当時のNelsonには新鮮な発言と映りました。宜しければ、 もどうぞご覧ください。
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