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こころと技ージャズに進歩は不要

ジャズでは、演奏者のこころ、情念が大事なのであって、技、演奏技術はそこそこ有れば良い、従って普通に言う意味での進歩は不要ではないか、というお話です。
  • ジャズではなく、クラシック畑の本なんですが、「ザ・レコード」(羊書房、1989年刊)という古畑銀之助さんの本を読んでいて、「なるほど、クラシックでもそうなんだ」と大いに納得したことがあります。古畑さんは、日本貿易振興会、ジェトロに長く勤務されていた方ですが、クラシック音楽がお好きで、造詣も深いようですが、その媒体であるレコードについてエッセィを書かれたということのようです。
    「音楽は競争とは無縁である」
  • その本に、「音楽は競争とは無縁である」という章が設けてあり、その中で述べられていることに大いに共感したわけです。古畑さんは、ここ数十年の傾向として、「現代感覚のすばらしい演奏」が持てはやされすぎていることに苦言を呈されています。そして「技術が音楽に先行優位することが、次第に肝心の音楽を後方にとり残す結果をうみだすのではないか」と考えておられます。特にアメリカの自由競争原理が、産業分野だけではなく、芸術や音楽の分野にも、世界一主義、完璧主義として横行しているというのです。古過ぎることかも知れませんが、クライヴァーン登場時には、Nelsonもビックリした記憶があります。各地のコンクールでは、ドイツ音楽、フランス音楽といった各分野の真髄をいかに表現するかということではなく、演奏技術のスポーツまがいの競争が繰り広げられているというのです。確かにたまにしかクラシックを聞かないNelsonでも、ここ数十年の演奏家の技術の凄さは驚嘆ものである、ということは知っています。でも、古畑さんは、「演奏技術の完璧さというものは、聴いて驚嘆すべきだし、現に感動もするが、音楽とはそんなものだろうか、それで良いのだろうか」と疑義を感じられるようなのです。技術の過大評価には疑問あり、と聞こえました。つまり、「音楽とは、人のこころを歌うものであり、個人、社会、民族のこころ、歓喜・挫折・傷跡・嗚咽・呻吟・訴え・祈り・憧れを歌うものだろう。」と言っておられます。そして新人のレコードを聴いて、見事、と感じながらも、考え込まされたのだそうです。
    ジャズでもそのまま当てはまる
  • クラシック音楽について古畑さんが述べられた上記のことは、そのままジャズにも通じることが直ぐにお分かりになったでしょう。ジャズにおいても、色んな曲の曲想に託して、自己の心情を吐露することがなによりも大事なのであり、それに必要な技術はある程度のレベルがあれば良いのではないかと、Nelsonも思います。バリバリ、キャラキャラは、一時期人目を引くものの、直ぐに飽きられてしまいます。また卓越した音出しで、幾ら音数多く弾いたとしても、それだけでは聴く人の心は撃たないのです。人を撃つのは、「音の重さ」です。「演奏は下手でも良い」なんてことを言う積もりはありませんが、技術レベルがあるところまで来ると、その先で精進すべきは、表現する内容の切磋琢磨であり、「切なさ」のレベルにまで音を凝縮することではないかと思うのです。技術だけが進歩したジャズなんて、「クソ食らえ」に違いありません。
    50年代、60年代のジャズへの根強い傾倒
  • もう既に21世紀と、世紀まで新しくなったのに、未だに50年代、60年代のジャズの人気は衰えていません。ジャズ盤の売れ行きのかなりの部分を、この手のジャズが占めていることは、やはり多くの方がそういうジャズを愛でておられるからです。この時期のジャズは、結構厳しい社会状況の中で演奏されており、自己表現に対する飢餓感が、今とは明確に違います。また、演奏技術の大衆化も未だしの段階にあり、技術的精進もさりながら、むしろ心情の表現に皆が精進したのだと理解しています。「ジャズはフォービートじゃなきゃぁ」なんて言う積もりはありませんし、従って決して「Good, Old Days」に安住する気はありません。このサイトを御覧になれば判るとおり、今様のジャズ盤も買ってはいます。でも、「どっか、勘違いしとるンとちゃうかぁ」という気になる盤が散見されます。なかなか目に見えた出来栄えということには直ぐに繋がらないかも知れませんが、「こころを歌う」ということの重要性が見落とされているという気がします。
    Sidney BechetのSummetimeと、John ColtraneのMy Favorite Things
  • John Coltraneが好きで、この間もOlatunji Concert盤でのMy Favorite Thingsには、撃たれるものを感じました。この人には、ほとほと参ります。それはそうであるとして、同じソプラノサックスでは、Sidney BechetのSummetime *が有ります。古い演奏ですが、「言葉を失う」という表現が当てはまる、素晴らしい演奏です。ジャズには、幾つものピークがあると感じざるを得ません。そして、色々あったジャズの変遷及び伝統を踏まえた上で、未知の領域に挑んだJohn Coltraneは、確かにエライ人ですが、「このSidney BechetのSummetimeと、John ColtraneのMy Favorite Thingsとを較べて、演奏としてどっちを取るか」と言われると、答はそう簡単ではありません。John Coltraneの演奏のほうが、複雑で、サイドメンも含めたグループとしての完成度、個々人の平均的な技術レベルも高いのかも知れません。しかし、、、しかし、その演奏から遡ること20年以上前のSidney BechetのSummetimeの方が、「ジャズとして、芸術として、人間の所為としては、格が上だ」と言う人が居ても、Nelsonは恐らく反論しないと思います。優れた芸術(ジャズ)は、時代を超えた存在だと思うからです。
    * : (Blue Note 12インチSP、BN6、1939年録音、Bechetがピアノの巨人Meade Lux Lewisとやった不朽の名演。CDとしては、例えば、The Blue Note Years Vol. 1: Boogie, Blues and Bop、BN7243-4956982枚組の一枚目に所収) 
    鳥獣戯画と、今様の精密画
  • 昔の絵で、鳥獣戯画や、イコンのように、ざっくりと書いた名品があります。特に鳥獣戯画などは、和紙の上に墨を置いただけの簡潔な絵巻です。こういう絵には、結構、隙間があります。それに比して、何か判らないのですが、兎に角よく書き込んだ絵を見かけます。でも、色々書いてあるけど、心を撃たないのです。ざっくりと書いて、そこで筆を抑えて、それ以上は書き込まない。この見切りがしっかりしている絵には、力があります。手間をかけたからといって、良い絵になるわけではありません。元の素描が駄目な絵に、いくら筆を加えても良い絵にはなりません。客体を大掴みに表現する能力が大事なのです。ジャズでも、ブヒャ、ブヒャ、あるいはコロコロと、手数多く出すからといって、それが感動につながることは少ないのではないかと思います。古いジャズについて「稚拙だ」とみる嫌いがあるようですが、もう一度「音の重さ」、「音の力」という観点でもジャズを聴いてはいかがか、と思います

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