名演は「既にしてそこにあるのか」、あるいは「その時々に発見されるのか」 -- 鴨居玲とアリラン、NelsonとJackie McLean --
- 名演は、それを聴いた事が無い人にとっては「既に名演として存在している」のではなく、聴いてみてこれは名演だと感じた「その時々に、名演となる」んじゃぁないのかという気がする、という妙なお話です。
名演
- 世に「名演」と呼ばれる演奏があります。卑近な例ではMoritat/ Sonny Rollinsや、So What/ Miles Davis等の事です。大概の人はこれらを聴くと「こりゃ、名演だと言われる筈だ」と納得します。よくは判りませんが、現に多くの方がそういう名演に魅了されておられます。一方で、世の中で見向きもされないけれど、自分で聞いて感激したので人に言うのですが、でも「フーン」で終わってしまうだけの演奏もあります。こういう場合に、よく「出会い」という言い方をします。ある演奏と、ある個人がそこで出会った、ということでしょう。単に、「ある作品を見た」とか、「良い作品を読んだ」とかいうレベルではなく、ある芸術作品と運命的な出会いをしてしまい、その後のその人の生き方に大きく影を投げかけた時などに、「アノ人は、その作品に出会ってしまった」などという言い方をします。Nelsonにとって出会いとなったジャズは幾つもありますが、比較的初期のものとしてはD's DilemmaにおけるJackie McLeanの演奏などがそうです。この演奏におけるJackie McLeanの甘美な、切ない叫びに、参ってしまったのです。どうと言うことはない、ト(10)インチの中の一曲ですし、30年以上に及ぶジャズ暮らしの中で、他人がこの演奏のことを取り上げて褒めるのを聞いたことはありませんから、一般的には「大したことのない演奏」に違いありません。でも、個人的には大変に大事な演奏になっています。だから、最初に聴いた時に感じた「震え」は大事にしています。これがつまり、「出会い」、あるいは「極私的な名演」です。他の方、例えば、Coltrane研究家の藤○さんにとっては、Selflessness Featuring My Favorite Thingsの「My Favorite Things」だそうです。これに撃たれて、藤○さんはColtrane研究に一生を捧げる気になられたとよく書いておられます。そのように、その後のジャズとの付き合いの方向が決まるような、そういう演奏と出会うということが、どなたにもあった筈です。単に「良い演奏だなぁと思って、それからよく聴くんですョ」という程度ではなく、もっと決定的な何かを持った演奏に、図らずも出会ってしまうのです。
ここからは極論
- 言葉遊びではありませんが、出会うのですから相手がいるわけで、出会いの原因である「極私的な名演」に限定して、出会いという側面をもっと大きく捉えると、次のような極論が成立しないでしょうか。すなわち、作品が発表されて、それが鑑賞され、「出会われた」場合は、その鑑賞者もまたその作品に「何らかの作用」をしたと考えても良いのではないか、ということです。元来、発表された作品は、鑑賞されてナンボのものです。無論、「作品がすべて」であることはよく承知してはおります。そうではありますが、でも「出会い」のようなレベルの感動の場合には、「鑑賞者が居て、鑑賞されてこそ、その作品は作品になる」と言う気がします。あるいは、ここでは作品と「作品」とを区別すべきかも知れません。自分の中で位置付けがあいまいな物は作品でしかなく、出会いとなるような印象的なものはカッコ付きの「作品」として、自分の中で大きく位置付けされている筈です。ただし、こういう話は皆、市井のジャズファンの、自分のジャズの世界の中での話です。市井のファンにとっては、自分の聞いたジャズがジャズのすべてであり、まだ聴いたことの無いジャズというのは存在もしていないも同然です。評論家さんなら、聞いても居ないジャズについても何か言う(失礼)必要があるかも知れませんが、市井のジャズファンは自分の守備範囲、自分の知っているジャズが全てです。そういう私的なジャズの世界では、ジャズが演奏された時には、厳密に言えば未完なのかも知れません。作品は、自分が鑑賞して初めて(自分のジャズの世界に)存在し始めます。その中で、滅多にはないけれども大きく影響を受けて、「出会い」となった時にその演奏は、初めて「作品」、即ち「極私的な名演」となります。つまり、自分の世界の中で、その演奏を鑑賞するまではそれはただの音にしか過ぎず、作品自体では完結していない、とも言えます。つまり、「作品」を生きる人がいてこその、「作品」である、と。
鴨居玲とアリラン
- この間、芸術番組でMal Waldronにも通じる絵を書く洋画家鴨居玲の特集がありました。自画像、ピエロ・シリーズも良いですし、「一期は夢か」なんて絵もあります。近場の笠間日動にも良い絵があり、それも紹介されているので見ていたら、鴨居さんが友人の奥さんの声楽家が歌うアリランに号泣した、という挿話が紹介されていました。思い出話とともに、その方が番組のために歌ってみせていましたが、頷きました。鴨居ーアリランには繋がる糸があり、それは「出会い」だった筈です。また知人で、John Coltraneの来日公演に「出会って」しまって、学業を放擲してしばらくプーをした後、陶芸の道に進んだ人が居ます。この人の場合、妙な言い方になりますが「John Coltraneの来日公演を生きる」ことにしたんだろうなぁ、と受け取っています。ガウディの聖母教会に出会う人も居るでしょうし、聖書に出会った人も居るでしょう。レディ・ディの「奇妙な果実」に出会った方もいらっしゃる筈です。ジャズにもある色々な出会いのことを見聞きすると、その曲のその演奏が存在したからだけではなく、聴いた側にその演奏に出会う下地が既に芽生えており、それが「出会い」において顕わになり、形を取り始めたと思うしかない面もあります。「受け手側が付け加える要素もあるなぁ」、「その演奏とその人が正に出会って、融合して新しいものが生まれたと言っても言いすぎじゃァ無いな」と感じて、上記のような極論に至りました。
ということで、、、
- 市井の一ジャズファンにとっては、名演は自分が鑑賞する前に「既にしてそこにある」のではありません。そのように一方向的に、権威主義的にジャズを捕えても、良いことは何も無いような気がします。自分が鑑賞して、その素晴らしさに打たれた「その時々に発見される」のではないでしょうか。紛れも無く自分の感興がそこにあったからこそ、その演奏は「名演」なのであり、それが何故「名演」なのかは、自分が一番よく知っている筈です。自分で楽しむジャズですから、世評などは関係がありません。自分にとっての名演は、自分が(演奏者と力を合わせて)「発見」するものだ、と考えています。
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