Blue Noteは、この社長のジャズに対する思い入れが良い展開に繋がったために、各年代で素晴らしい音源を録音する事に成功し、それが現在の名声の礎となっている。この社長は、それまで他のレーベルが殆ど見向きもしなかったJimmy Smithや、Sonny Clark等の人材をいち早く見分ける事に異常な嗅覚を活用し、いわゆる「これと見込んだ」人材を他レーベルに先駆けて専属にした。そしてそこから先も独特の動きをしたわけで、これらの人材たちに異常と言えるほど多くの録音の機会を短期間に与えている。他レーベルでも、専属ジャズメンに多くの録音をさせていたが、正に「旬の時期」を見極めているかのように、狙った人には集中的な活動を行わせているのは、Blue Noteレーベルの特色である。このようなやり方がモダンジャズのマイナーレーベルの運営の仕方として王道であった事は、歴史によって証明される結果となっている。Ike Quebecや、Duke Pearson等のサポート
上記のような方針を実際にやっていく中で、ライオン社長はジャズメンであり、かつ色々と顔の広いIke Quebec等に、相談をしていたようである。このようなことも洋の東西を問わず行われている事で、そのような相談役はA & R (Artist and Repertoire) manと呼ばれている。しかし、Blue Noteの場合、社長本人の嗅覚に加えて、これらの人も実に良くこれをサポートしたようで、独特の専属陣が形成されるに至った。特に、40年代に第一線で活躍した後、少し出番のなかったIke QuebecはA & R manとして、抜群の手腕を発揮したようである。例えばSonny Clarkの場合
Lionは、自分の好みがある意味で偏っていると言う認識は持ち合わせていたようで、自分のレーベルはあくまでもマイナーレーベルであり、国外はおろか、国内でもそれ程の売上を上げる積もりは無かったようである。そして自己のレーベルの特色が、Rudy Van Gelderによる音作りとプレスにもあることも認識していた。従って、海外でのプレスを長く拒否し、プレスは自社保有の録音マスターに限定し、米国内で行わせた輸出盤(^^;)のみを国外で流通させていた。そのうちに米国だけが上質のプレス能力を持つわけではないことに気付いて、海外プレスを認めるようになったが、安易に国外プレスを許容しなかったのは見識である。その時期は、Blue NoteをLiberty社に売却する時期と前後しており、自己のレーベルを他人に売却する流れの中で、原盤のマスター貸与だけでなく、更に国外での編集も認めるという風に変化していく。それを待っていた日本のレコード会社は、「それッ」とばかりにSonny Clark等の未発売録音の発掘に努め、一時期は日本が最もBlue Noteの発掘盤が容易に手に入る国となった。今では、Michael Cascunaという熱狂的な伯父さんがMosaicという発掘専門のレーベルを使って、旧録音の発掘を執拗に行っており、世界中で色んなレーベルの未発表盤が断簡に至るまで発売されている。ジャケットのデザイン
Blue Noteは、その特異で、かつ優れたジャケット・デザインでも知られている。これはReid Milesという若者が押し売りに近い形で持ち込んだ路線であるが、当時の最先端のデザイン感覚に、人種偏見のかけらもない素晴らしいジャズ理解とが相まって、このデザインだけで本が一冊出て、しかもよく売れると言うレベルの高いものであった。これについては、他の方が多く書かれているので、ここではこの程度にとどめる。