中村仲蔵を「アウト」する : 林家正蔵と立川志の輔
- "中村仲蔵」という古典落語の名作がありますが、まぁ、その典拠ともいうべき林家正蔵のモノをジャズで言うところの「イン」の名演とすれば、今春に立川志の輔がやったモノは、それを「アウト#しようとする試みとして、十分な意義がありはしないか、、、というお話です。
「志の輔らくご in PARCO」をWOWOWで、、、
- 2007年1月の「志の輔らくご in PARCO」のトリで、志の輔が"中村仲蔵」をやったそうです。残念ながら行きそびれましたが、「実に素晴らしかった。近年最大の収穫だ。」というのが、もっぱらの評判のようです。「それは、残念なことをしたなぁ、、、」と思っていましたら、この春分の日のWOWOWでの放映を、幸いにも見ることが出来ました。なるほど、話題になったのも当然の熱演でした。しかも、諸先輩がやった古典的なスタイルでは無く、志の輔らしさがそこここに横溢していました。
「中村仲蔵」
- この世話物は、後に名人となる歌舞伎役者の中村仲蔵が、名題に昇格後初めての舞台で、忠臣蔵の斧定九郎の役をもらったことに端を発します。それまでのむさくるしい山賊風の役柄を見直して、大身(たいしん)の御家人の子弟という出を取り入れた斬新な色悪(いろあく)仕立てで演じたのですが、お客の方はあまりの見事さに感心するばかりで、"栄屋!」というガナリを入れてくれません。仲蔵は「こりゃぁ、しくじった」と一旦は誤解するのですが、街中で自分の新解釈を褒める声を聞いて、古女房共々に感激する、、、というのが粗筋です。円生、志ん生などの名演がありますが、Nelsonは林家正蔵のモノが大好きです。正蔵の枯れた、渋い味わいに古典の凄さ、深さを感じていました。ジャズで言えば、名曲を採り上げての名演、それも典拠となる名演だと思います。その意味では、「イン」の名演でしょう。
「イン#と「アウト」
- ジャズには、「イン#と「アウト」という用語があります。(ご存じない方は、我がサイトのJazz Glossaryをご覧ください。)要すれば、従来の定型をそのまま踏襲しながらも個性を発揮する「イン」に対して、自分の感覚を信じて旧弊を打破し、新風を吹き込もうとする「アウト」とでも言えば、当たらずとも遠からずでしょう。このようなことは、個性を重んじるジャズなら当然のことですが、他の芸術分野、たとえば古典芸能である「落語」において試みられても、おかしくはありません。いつの時代にも、またどんな分野でも、気概に満ちた芸術家は、果敢に「アウト」を目指すものです。
- 林家正蔵等の古典落語の名人が演じる「中村仲蔵」は、「イン」の名演に当たります。約束事があって、それの埒を越えないのだけれども、訓練の賜物でしょうか、巧みな話術によって、人生の機微を感じさせます。型にはまってはいるのですが、そこに正蔵の個性がはっきりと出ているから不思議です。そういう古典的な名演を十分に知り、その素晴らしさを心得た上に違いありませんが、志の輔は敢えて「アウト」することを試みます。志の輔は昭和29年生まれで、Nelsonよりも1世代下に当たりますが、ここでの語り口は「我々世代」とでも言いたくなるような、オヤジ世代のそれです。当然、いくつかの彼らしい話の膨らましがありますが、それも現代の社会人に特有のクスグリであり、褒め言葉としての「今様(いまよう)」そのものです。現代に生きる我々が聴いて身近な語り口に置き換えた努力と才能は、立派なものだと感心しました。
アウトの危うさ
- 「アウト」するには、「イン#、つまりは定型の居心地の良さを捨てて、誰もまだやったことの無い領域に踏み込まねばなりません。ものの見事に着地に失敗しても、当然なのです。お分かりのように、定型というのはそんなに軽々しいものではありません。生半可な「アウト」をすれば「くだらない」と一蹴されるほどに、練って、練って、練り上げられたもの、それが定型です。不動の価値があるからこその、「イン#であり、定型です。思い付きで、ヒックリ返せるほどヤワなものではないのです。しかし、志の輔のやったヴァージョンは、思いつきの「アウト」を超えて、しっかりと練られていました。これだけの仕上がりなら、「アウト」するだけの意義が確かにあったと納得させるに十分な迫力に満ちていました。立派なものでした。
アウトする中村仲蔵、アウトする志の輔、、、
- 既に、お気付きになった方も居らっしゃるかも知れませんが、志の輔が「アウト」する対象に選んだ中村仲蔵も、実は歌舞伎において「アウト」しようとした役者だと言えます。定型の山賊衣装でやって置けば、型どおりですし、「しくじったぁ、、、」なんてハラハラすることもありません。お義理で、"栄屋!」というガナリも入ったかも知れません。しかし、仲蔵はそんなことに安住したくなかったのです。仲蔵は、「中村仲蔵の斧定九郎をやりたかった。」に違いありません。そして見巧者の江戸市民はそれを見抜いて、彼の新解釈に絶大なる拍手を送り、翌日から芸者衆、魚河岸の旦那衆等々が、「仲蔵の定九郎」を見に押しかけて、満員札止めになったのです。
- 志の輔にも、古典の型どおりの語り口で「中村仲蔵」をやるという選択肢はあったでしょう。恒例とはなっていても、大事な独演会のトリの外題ですから、万が一にも失敗したくなかった筈です。しかし志の輔にもまた、後に名優といわれた仲蔵と同様の気骨があったのでしょう、「安全パイでお茶を濁したくはなかった。志の輔の中村仲蔵がやりたかった。」のに、違いありません。この二人は、歌舞伎と落語という異なる世界の人ですが、そういう共通点があると思います。
- ここからは、Nelsonのごく私的な、個人的な好みの話になります。志の輔のアウトした「中村仲蔵」を聴いた上のことですが、Nelsonは林家正蔵のモノの方が、しっくり来るし、落ち着いて聴けます。これは、「良い・悪い」の問題ではなく、好みの問題なんで、仕方ありません。
(志の輔ファンには申し訳ありませんが、志の輔が挿入したクスグリに、まだ練りが足りないと感じました。90点の出来ではありますが、120点ではありません。古典とは、120点を要求する世界だと思います。もう少しの熟成を期待します。志の輔には、それが出来るはずです)
- これをジャズで言うと、こういうことでしょう。Nelsonは、50年代から60年代頃のジャズが一番しっくり来ます。それよりも新しいジャズも好きですが、「さて、何を聴くかなぁ、、、」とかいう日常的な、ケのジャズとしては、本線モダンジャズの、5、60年頃のものが、一番落ち着きます。
- それにしても、志の輔が今般、「中村仲蔵」をアウトして演じようとした試みには、脱帽します。素晴らしいレベルに達していることは確かですし、彼のような売れっ子落語家が、このように果敢に古典落語の新解釈に立ち向かったのは、凄いことです。日本の大事な文化である落語の将来は、決して暗くは無いと思います。
- そして、我が愛する「本線モダンジャズ」に話を戻します。果敢な「アウト」がもたらす精神の運動、、、定型からにじみ出てくる個性を楽しむ「イン」のくつろぎ、、、いずれを採るかは聴く人の自由です。まだ聴いていない「イン」や「アウト」の名演がきっとある筈です。志の輔のアウトに拍手を送りながらも、「まだまだ、猟盤三昧を止めるわけにはいかんなぁ、、、」と反省の無いNelsonなのでした。
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