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彷徨と惑溺 --- 赤江瀑「花夜叉殺し」、そしてジャズ

  • 人間の官能と意識のせめぎ合いを独特の筆致で描く赤江瀑には、根強いファンが居られます。男と女、生と死、古典芸能、俗習、古都などを題材にする作品は、強いて言えば幻想小説の範疇に入るのでしょうか。かく言うNelsonも、処女作「獣林寺妖変」が単行本で発刊された時からの付き合いです。手元にある初版本には、同名の作品と、「ニジンスキーの手」そして「禽獣の門」という初期の名作が併戴されています。これらの作品群に魅了されて以来、この作家の殆ど全作品を読んできています。
    Bill Evans、John Handy、Charles Lloyd、、、
  • 先日、例によってジャズを色々と聴き狂っているうちに、たまたまBill EvansJohn HandyCharles Lloydという流れになって、また、「良ェなぁ」、「良ェなぁ」を連発しておりました。そして、そういうゆくりない時間の流れの中で、「そやけど、なんで、こういうジャズが良ェんやろなぁ」と考え込んでしまいました。そして本当に唐突になんですが、赤江瀑の描く世界を想起したので、ちょっとメモしておこうと思いました。
    「花夜叉殺し」
  • 想起したのは、単行本第2作の「罪喰い」に所収の「花夜叉殺し」という短編です。ある実業家所有になる京都の妾宅の庭、人呼んで「花屋敷」、作法どおりの景色は無視したメチャクチャな庭のようです。でも、この庭の狙いは別の所にあり、香りの強い花木を密に植込んで、一角にある四阿(あずまや)に座れば、一年中絶えない花の香りが楽しめるように工夫されています。そういう一風変わった花木ばかりの庭を舞台にした、猟奇的ともいえる人間模様が主題です。例えば花の咲く順番なども巧妙に考えられており、花の香りが複雑、微妙に絡み合って、その妾宅の女主人がその官能に酔い$身も世も無くもだえ狂うほどであると言います。そういう場の設定もさることながら、主人公たる一花(いっか)がその女と自分の親方をあやめるに至る展開は、赤江ならではの独壇場です。小説の方は、まぁ、図書館ででも読んで頂くとして、話を先に進めます。
    赤江瀑とジャズ
  • Nelsonが、ジャズと赤江瀑の「花夜叉殺し」の双方に通底するものとして想起したキーワードは、二つあります。先ずは、「彷徨」ということです。「庭を経巡(へめぐ)る」という行為と、テーマ及びアドリブを通してその曲の本質に迫るというジャズのあり方とが通底しては居ないか、ということがあります。次に、「惑溺」です。登場人物は花々が咲き誇る際の「香り」の抗しがたい魔力にもてあそばれてしまうのですが、これは嗅覚という官能に惑溺するということでしょう。ジャズも「美音」が聴覚に訴えかけることにより、人間の官能を揺さぶります。言い換えれば、ジャズにも、赤江瀑の「花夜叉殺し」にも、そこにはまり込むと楽しいけれども、また身動きもできないほどに絡め取られてしまうことも怖いという二律背反があり、それが判っていながらも、今日もまた、そういう抗しがたい官能に身をゆだねてしまう自分が居る、というような面があります。
    彷徨ーー回遊庭園で
  • 庭園こそ、彷徨に格好の場所に違いありません。例えば六義園(りくぎえん)であれ、銀閣、中でもとりわけ銀沙灘(ぎんしゃたん)であれ、魅力的な庭園では、足を踏み入れたその瞬間から、巷の騒音がフッと掻き消えて、静謐が支配する別世界になります。そのお庭を回遊したり、立ち止まって景色を楽しんだりする中で、それぞれの庭の主題というか、特徴がありながら、経巡(へめぐ)るにつれての変化があります。この道を右に取れば池に臨む藤棚があり$左に取れば築山の向こうにサツキの咲き誇る斜面をつづら返しに辿る細道があるとか、、、時の経つのを気にせずに、あちこちとそぞろ歩きをすれば、その庭の持つ世界に身をゆだねる感があります。この感じは、例えばある庭園をガイドに引率されて一周するというような「予定通りの周回」では味わえません。眼前の木立や、山水の景色に思わず惹きこまれて、辿る人も滅多にない細道につい入り込んだり、、、時にはその道が行き止まりになっていて気落ちしはするものの、返す足を止めて周りをフト見やると、その細道の入り口から覗き込んだ時には気付かなかった叢(くさむら)に、例えばカタクリや座禅草がほっこりと咲いていたりして、、、それは「予定通りの」では味わえない、「足の向くまま、気の向くまま」の彷徨でこそ出会える、言ってみれば至福でしょう。そして、こういう出会いは、瞬間芸術であるジャズにおける、「えぇーーっ、そんな風に持って行くのぉ、、、」というアドリブの展開に通底すると思います。
    彷徨ーーアドリブで
  • ジャズの演奏でも、「足の向くまま、気の向くまま」ということは大事です。これは、たとえばBill Evans晩年の「Nardis」のような演奏を例に取りましょう。呟くような感じで始まる、イントロのソロ・ピアノの中から、テーマがほのかに浮かび上がってきます。「そうか、次はこの曲か」と期待がふくらみます。やおらリズムが入ってきて、フェイクしながらのテーマ提示があって、しばらくすると、徐々に熱がこもってきます。とてもバラード曲とは思えないほどの激しい打鍵、ベースの唸り、ドラムスの連打による会話がひとしきりあり、各人がそれぞれにこの曲のイメージを各様に敷衍していきます。そしてまた、いつのまにか、演奏は静寂を取り戻し、たゆたうようなピアノ・ソロに収斂していきます。残心とでもいうのか、「こんなこともあり、あんなこともあり、、、」と回想するやにも受け取れます。この雰囲気は、「渉猟」という感じではなく、正に「彷徨」という表現がぴったりの、さ迷うような足取りです。この辺の流れは、瞬間芸術であるジャズにおけるアドリブ展開の醍醐味です。テーマの提示だけでも人を感動させることは可能ですし、コード、モード果てはフリーでのアドリブがSpontaneousに展開されていく様も聴きものです。そういう風に、その曲に抱いたイメージを、色んな角度から「ためつ、すがめつ」しつつ、ジャズメンが聴く側に提示していくのが、ジャズにおける彷徨の真骨頂です。
    惑溺−−芳香
  • 赤江瀑の「花夜叉殺し」では、巧みに配置された花木が咲き揃って、その匂いが渾然一体となって不思議な魔力を持って、四阿に座する女主人を翻弄します。五感の一つ、嗅覚を暴力的に刺激して、常態を逸するほど迄に人を狂わせる「芳香の渦」に巻き込まれる、この妾宅の内庭の怖さを主人は知っているものの、花の季節になると「その渦に我が身を委ねたい」、「あの芳香に包まれた時の陶酔をもう一度味わいたい」と、庭にさ迷いで出る自分を抑えられません。分別もあり、則(のり)も心得ているのに、あの不思議な世界にまた入り込んでしまうのです。日頃は冷静なのに、花の季節が来ると心が打ち騒いでしまうのです。こういう官能のすさまじい力には、何人(なにびと)も抗し切れない力があります。
    惑溺−−美音
  • Nelsonにとって、そして多くの熱烈なジャズファンも同意されるでしょうが、ジャズにおける「美音」とは、例えば「ピアノの右手シングル・トーンで決まり」ということではありません。ジャズにおける「美音」とは、そういう「世間的な」美音に止(とど)まらないものです。ピアノでいえばCecil Taylorの、サックスで言えばAlbert Aylerの、兇悪なフリーキー・トーンや不協和音であっても、適切なタイミングで発せられれば、それは美音です。半時間近くも吹きっ放しで疾走するJohn Coltraneの咆哮も、美音以外の何者でもありません。ジャズメンの誠実さに裏付けられ、危うい均衡の下で必然性を辛うじて保つ、そのような美音に身をゆだねること、これこそがジャズにおける至福です。出た所勝負のライブでは当然のこと、繰り返し聴きのできる再生音楽であっても、聴く度に新しい発見があり、感動が生まれる、そういう演奏に我が身をゆだねることほどの幸せはありません。そして意外に聞こえるかも知れませんが、多くの識者が指摘するように、「ジャズの最大の魅力は、小難しい演奏手法にあるのではなく、楽器の音、その美音自体を楽しむことにある。」のです。
    ちょっと無理筋か
  • 以上、かなり個人的な見方を御披露してしまいました。共感頂ける程のうまい説明ができなかった気がしますが、言い換えればこういうことです。ジャズの演奏は、ジャズメンがその曲に抱くイメージ、解釈、つまり色んな手法による「変奏」を、聴く側に投げかけるものです。我々、聴く側は、そういう変奏、上記の例えでは庭の彷徨を楽しみ、かつその際の美音、上記の例えでは花のむせ返るような「香り」を楽しむものではないかという気がするのですが、如何でしょうか。

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