不自由さへの執着: ジャズと文楽
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文楽を見ていて、人形の所作の「不自由さ」が克服されているさまに感じ入り、本線モダンジャズにおける「不自由さ」との戦いに思いが及んだ、というお話です。
文楽の「絵本太功記]
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NHKを見るともなく見ていたら、珍しく「絵本太功(太閤)記」をやっていたので見入っているうちに、文楽が「不自由さ」を乗り越えて到達している高みに、今更ながらに唸ってしまいました。「絵本太功記]は、明智光秀を主人公にして、信長、秀吉等との絡みを通じて、光秀なりの武士としての生き方を描いています。いわゆる「謀反人」ではありますが、彼をそこまで追い込んだのは、信長の宗教弾圧等の過激な政治姿勢です。さらに、信長の奇矯な性格は部下を時に虐待するほどのものでした。この絵本太功記では例示として、信長が森蘭丸に命じて、光秀の顔面を鉄扇で打ち据えさせた場面を採り上げています。鉄扇は光秀に「向こう傷」を与え、光秀はその出血によって恥辱の極致に至ります。そういう場面を通じて、信長の奇矯な性格、そして光秀の反発が如実に描写され、そして、その説得力を下支えしているのが、人形の所作でした。
人形の不自由さ
- 人形は、人ではありませんから、どうしても所作の不自由さは不可避です。しかし、文楽では、人形の所作を実際に行う太夫さんと、それをサポートする黒子さんが居て、長年の歴史の中で磨き上げられたワザを駆使しておられて、喜怒哀楽の表現には不自然さがありません。しかし、光秀が懐紙に付いた血の色を見て、武士の体面を失墜させる「向こう傷」に対して抱いた憤怒の感情表現には、所作だけでは不十分です。ここは、憤怒にゆがむ表情が欲しい場面です。しかし、人形の所作に不自由がなくても、所詮は木製(デク)の顔に顔料を塗っただけの人形芝居です。木製の顔を苦悩にゆがませることは出来ません。人形のカシラは、下唇を下げて会話を模擬したり、眉を動かしたりは出来ますが、オペラや映画で見られるような顔の表情のゆがみは表現不可能なのです。
「動かないからこその動き」
- しかし、それで終わるのであれば、文楽は、ただのデクの坊が演じる人形劇でしかなかったでしょう。文楽はそういう不自由さを超克しています。文楽では、そういう場合には、人形が顔を伏せたり、上体を震えさせたり、太棹の義太夫が声を振り絞ったりする等の、複合技で主人公の苦悩を表現します。そういう、若干誇張され、象徴的に簡略化された幾つかの仕掛け全体で、本来は不可能な筈の人間の内面の感情の表現に、文楽は挑戦し、その不可能を超克し得ています。そういう仕掛けに支えられているので、画面に大写しになった人形の表情には、確かに変化はしていないのですが、表現すべき感情が読み取れます。矛盾した言い方と承知していますが、「動かないからこそ、動きが感じられるのです。」無論、欧米人には無いアジア独特の「耐える」、「耐えしのぐ」という文化の存在が、そこにあることは認めますが、「表現せずに、表現する」というマカ不思議な世界があることには、撃たれずには居れません。「なんで、こんな込み入った話を、人形芝居なんかでやろうとするのか」と馬鹿にしたい所なのですが、逆に、そういう高みにある芸術の凄さを見せ付けられては、感嘆するしかありません。文楽は、言ってみれば人形芝居です。人形芝居である文楽が我が国の伝統芸術として、国立劇場で公演されるのは、それだけの魅力を持っているからです。文楽では、人形にヒトもどきの所作を巧妙にさせる太夫さんの至芸もさることながら、黒子さんのサポート、舞台の大道具・小道具等々が一体となって、素晴らしい演劇となっているのです。そしてそこで、また、「これは、ジャズと一緒だ」と、つい飛躍するのがNelsonです。
本線モダンジャズの不自由
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本線モダンジャズは、結構不自由なものです。別にフリージャズのようなやりたい放題の演奏を持ち出すまでもなく、一定の決まりごとがありますし、その決まりを守りながらの妙技を賞味するものです。アドリブにはそれなりのやり方があり、例えばガチガチのコードによるアドリブでは、使える音符には制限があります。そこまでガチガチでないにしても、ブルー・ノートや、ジャズらしいイディオムというものもあります。そういう制約の中で、聴く人を惹き込むこと、これが本線モダンジャズの要諦です。そしてその枠の中でありながら、何と多様で、しかも人間味あふれるジャズの演奏があることでしょうか。一寸聴きには、何の制約も無く、やりたい放題にすら聴こえます。
模索とアイデアの練磨
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世の中の商売でも、競争相手がとんでもない新規の性能や、価格を持った新製品を出してくると、皆が「マイッタぁ」等と言うのですが、一年もするとそれを凌駕する新製品が対抗して出てくる、ということがよくあります。建築家などでも、「外観・費用に注文は付けない。」という場合よりも、「予算が厳しく、敷地も狭小・異形で、かつ施主の注文が盛り沢山、、、」という場合の方が、良い作品ができると言われます。ジャズの良い演奏も、理想的な環境だから生まれるというよりは、大きな難題とまで言わない迄も、いくつかの問題に立ち向かいながらという状況の方の中で生まれるもののような気がします。極論かも知れませんが、そこでは模索することがなによりも大事なのであって、アイデアの質は呻吟(しんぎん)の量に比例するかのようです。その辺は、「まだまだやることは一杯ある」のかというメモの中で、あのMilt Jacksonの天衣無縫さを例にとって述べました。
入れ物ではなく、中身
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上記「まだまだやることは一杯ある」のかというメモの副題は、「New Wine in Old Bottles」としています。本線モダンジャズであれ、ビヨンドものであれ、さてはフリーであっても、そこにジャズメンがどのように模索しつつ、アイデアの練磨の成果を吐露しているかが大事なのであり、スタイルの新旧では話ができないということでしょう。新たらし目のスタイルが合う人ならともかく、本線のスタイルでまだまだやることがあると思う人は、何の気兼ねもなく、やりたいことをやれば良いのです。新しいスタイルや、新しいジャズメンでも、残るものは残ります。それが進歩というものでしょう。しかし、「メディアが1、2年騒いだだけで、泡沫のように消えていくという例が、なんと多いことか」と市井のジャズ親父は残念に思うのであります。
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