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「新しいコトバ」(広告批評) -- New Wine in Old Bottles (1)

  • 雑誌「広告批評」は、今やかなりの人がその存在を知っているメディアです。天野祐吉さんが主催されており、現代文明の一つの大きな要素である「広告」を通した、世の中の切り口の面白さには定評があります。この「広告批評」は、刊行当初には、なかなか売れ行きもママならなかったようですが、今はそれなりの固定ファンが付いています。稿料の関係もあったのでしょうか、当初からインタビュー記事が目立ちました。そして、地歩を固めた今でも、その姿勢に変わりはないようです。しまぶくろ(島袋?)さんという名サポートが居て、時代の一歩先を行く面白そうな人を見つけて来て、インタビュー記事に仕上げるんだそうです。そういう「来てる人」の魅力を通じて、現代の世相に新しい切り口を見つけるわけです。ドライブ中のラジオから、この雑誌の話が聞えてきたことがあり、番組の中で「新しいコトバ」というフレーズが、しきりに繰り返されていました。
    「新しいコトバ」
  • その番組で語られている所によれば、ただのインタビューでは記事にならないようです。取材の段階で狙いを付けた人が、「新しいコトバ」で語る人でなければ、面白い記事にはならないというのです。これまで「広告批評」誌が記事にし、その評判が良かった糸井、たけし、所、タモリ、村上等々という方々とのインタビューでは、その方の使う「新しいコトバ」が文明批評となるように苦労したんだそうです。これらの方々は、この雑誌が出発した80年代以降の世相を代表する方々であり、青島、野坂、前田、巨泉といった、それ以前の世代とは違った世代です。天野さんは、自身をそういう旧世代の人間と位置付けておられるようです。その旧世代から見た新しい世代は、「書き言葉」ではなく、「話し言葉」の闊達さ、新鮮さに特徴があるそうです。そして、格好をつけた表現ではなく、普通のコトバに新しい意味を付加しながら語られる世界がそこにはあり、またその世界は「そういう平易な言葉でしか表現できない世界のようだ」というのです。この辺は、Nelsonが日頃、ジャズに関して、あいまいながら感じていた所と通底するところがあり、大いに納得しました。
    ジャズにおける新しい表現
  • ジャズにも、大きく捉えるとスィング、バップ・モダン、フリー、モード、、、という時間の流れが読み取れます。無論、個々のジャズメンはそれほど時の流れを意識してはいません。ジャズにおける時の流れと、ジャズメンとしてのキャリアにおける時の流れが錯綜するのが、現実です。個々人のレベルでは、時の流れに律儀に、スィングからジャズの勉強を始める人も居れば、取っ付きからフリーに飛び込んでしまう人も居た訳です。そして、その中で「自分はどういう人間なのか」ということを、ジャズを通じて表現していくのが、ジャズメンです。陳腐化し、あるいは手垢に汚れたイディオムではなく、「肉声による新しい表現」を模索するのが、ジャズでしょう。過去にも、そういう個々人の模索が、ジャズの新しい流れとなったハードバップ、モード等々の芽生えにつながって来ました。それはまた、「イン」に対する「アウト」の追求であり、「リハモ」が生まれる必然性であったに違いありません。
    そこで、、、
  • そこで大事なことは、「リハモ」とか、「モード」とかいう「手段、あるいは道具」を、後生大事に踏襲することではありません。そういう手頃な手段があるとしても、それに安易に乗っかるだけではなく、それはそれとして、「自分にしっくり来る演奏の仕方はどういうものか」という私的なアプローチの大事さを意識し、固執し続けることだと思われてなりません。世の中(のジャズ)がいろんな形を取るとしても、まぁ、それはさておいて、「自分は何が言いたいのか」と不断に問い続け、模索すること、どのような芸術分野であっても、それが何よりの要諦です。たとえそれが回り道になったとしても、それはそれで仕方のないことです。「自己表現」、つまり「肉声」は、本来的に、優れて私的であり、「はやりすたり」とは無縁の筈です。誰も見向きもしなかった辺鄙な領域であっても、そこに何かがありそうだと感じ、懸命に「自分の言葉」を探そうとしているジャズメンの姿は、たとえどのように泥臭く、異様であっても、必ず理解者が現れたことは、歴史が示しています。
    馬鹿と言われても、、、
  • Birdも、Milesも、Coltraneも、Kirkも、ある時期には、「何じゃいな、あいつのジャズは」と馬鹿呼ばわりされていました。それでもそういった先達は、「こうなんじゃァないか」と(あるいはもっと下世話に「これしか出来ないから」かも知れませんが)、あくまでも私的な模索の中で「新しい言葉」を見出して来ました。そして、そういう場合には、余り世の中のことを気にしないのが、吉のようです。自分を信じて、納得できるやり方を、シコシコと続ける他ありません。Nelsonのような、「右顧左眄」が不可欠な宮仕えならいざ知らず、孤独な営為としての芸術の一形態である「ジャズ」を志した以上は、そこまでの徹底、我流が必要です。無論、独りでジャズはできませんから、片意地はいけませんが、同好のジャズメンを見付けて、そういう我が侭、自分勝手をうまく良い方向に持って行くことは可能です。
    Those Groovy Cats
  • このサイトのThose Groovy Catsに挙げたジャズメンは、すべてが「自分のコトバ」、「新しいコトバ」でジャズを聴かせてくれる人々です。当初はその方言のきつさにアキレルかも知れませんが、慣れてしまえば、それぞれのジャズメンの人間的な魅力には、捨て難いものがあります。さらに、これから少し聴き込もうと思っているイタリアのアルト、「Massimo Urbani」にも、どうやらそういう面がありそうです。Sonny Clark等が捨て難いように、この人も「悪癖で夭折したジャズメン」と簡単に片付けてしまうわけにはいかない何かが、そこにあるのではないかと思っています。

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