Art Pepperの美ー甘さと苦さ
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Art Pepperは人気の高いアルトですが、この人の前期と後期の演奏は相当にスタイルが異なっており、前期を否定する人は滅多に居ませんが、後期は否定する人は結構多いようです。しかし、「それは違うンでないの」というお話です。
Art Pepperの前期と後期
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Art Pepperについては演奏者ナビの他に、Art Pepper's Groovy Tracksでベストトラックを、Art Pepperの足跡でその演奏の流れを纏めてありますので、それをご確認ください。Pepperは52年の登場以来、天才的な素晴らしい即興演奏で多くのファンを魅了しますが、そのような演奏の時期は57年ごろに一応終わります。プロになって直ぐに始めた悪癖によって、逮捕、収監を何度も受けており、その中での前期の輝きであった訳です。50年代末になって悪癖の根治を決意したために、療養所滞在が長期にわたり、75年まで10年以上も録音らしい録音がなくなります。しかし、奥さんの懸命の励ましもあってか、75、6年ごろから悪癖の克服に成功しました。そして、82年に死去するまでの数年間、以前のように第一線で活躍するまでに復帰し、しかも演奏の質も高く、後期と呼べる大きなピークを作りました。
異論の出ない前期の素晴らしさ
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前期の彼は、正に神に愛されたと言える瑞々しさ、甘さ、即興的なアイディアの豊富さに満ち溢れています。「Modern Art」や「Meets the Rhythm Section」などを一寸聴けば、その流麗さ、融通無碍さは明らかですから、Nelsonが声高に言う必要はないでしょう。このような要素はジャズとしてもっとも大事なことですから、Nelsonが見聞きする限りで、前期のArt Pepperをベタ褒めしない人や記事を見たことはありません。誰もが目尻を下げる演奏ばかりなのです。この間の録音物は、今もジャズの大事な資産です
後期の演奏に対する保留
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後期の彼は、前期の演奏を踏まえながらも、演奏が盛り上がる部分で前期のようなキレイな音にはこだわらずに、重音や絶叫に近い音を多用します。復活を果たしたVillage Vanguardライブにおいても、殆どの曲で彼の音は「苦(にが)い」のです。ジャズには関係ないのですが、前期の彼は白面の貴公子ともいえる美男子であったのですが、長い療養生活を終えた後期の彼は風貌も前期とは打って変わった感があり、表情にも年齢(と恐らく懊悩)が深く刻み込まれています。その上、出す音が苦く、スキーク(ミスタッチで音が調子外れになること)も気にせずに、出したい音を懸命に模索する後期の演奏に、戸惑いを感じる人が多いようです。そしてその後が違うのですが、「これも、素晴らしい」と肯定する人と、「こんなPepperは、聴きたくない」と否定する人とに別れます。「もっと前期のような輝きが欲しいし、彼にはそれが出来るはずだ、ファンは彼の苦しげな演奏など聴きに来ては居ない、どうしてもっと客を楽しませないのだ。」という保留というか、はっきり言えば非難が結構出されたのです。
療養期とColtrane
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経験が無いから想像に止まりますが、薬物の禁断症状の克服は、Nelsonが何度も試みて失敗している禁煙とは比べ物にならないほどの苦難であると言われています。前期の人気と充足感に対比しての、悪癖に対する社会的制裁の過酷さに打ちのめされ、ジャズをファンに聞いてもらう機会を失ったジャズメンの苦悩は如何ばかりか、と想像に難くありません。記録によれば、その頃Coltraneの台頭があり、療養中の彼はColtraneの演奏を相当に聞き込んだし、実際テナーへの転向も試みたということです。恐らくは、それも支えにして困難な悪癖との決別を果たしたと思われますが、いずれにしてもその間に心(及び風貌)に刻まれた傷は、前期の彼には全く無かった要素です。
苦味は醜ではなく、美である
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そこで、Nelsonは「後期の彼に見る苦味は、軽々に醜と言うべきものではなく、むしろ率直な人間性の露出と言う意味では美である。」というテーゼを提起します。そうなのです。深みを増した後期の演奏が苦味を帯びているのを、キレイな音が出ていないというだけの理由で「醜い」と捉えるのは、余りにも表層的な解釈ではないでしょうか。そのような捉え方は、つまり、「キレイでないと、美ではない」という程度の浅薄な芸術理解のレベルでの発言ではないか、と思えるフシがあります。人生が苦しくはあっても生きるに値するとすれば、キレイではないが、重みを持った「苦み」は一つの美の形であり、決して醜ではない、と思います。苦難に立ち向かうのに、挫けそうになって這い蹲(はいつくば)る段階が途中で生じたとして、その膝を屈した姿は醜いのでしょうか。いや、困難な克服に至る過程が決して平坦でなく、一時は挫折もあり得たことは、決して恥ずべき過去ではない筈です。真摯な表現であるがために、キレイではない美はいくらも例があります。浅薄な第二芸術であればともかく、立派な芸術であるジャズは「挫折しかけたことの見苦しさ」を「キレイでない」と単純に否定する程度の上面のみの芸術ではない、と信じます。
無いものねだり
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自分のやりたいことを出来るだけ忠実に表現することが、ジャズの素晴らしさの一つです。前期に、未だ人生の底知れぬ深みを経験せずに、軽快に「瑞々しさ」に溢れるアドリブを、正に何の疑いも無く歌い上げていたArt Pepperのジャズも本物であり、また身も心も苛む薬物を克服して、その間の感性の変化を反映したジャズをやらずに居られないという、苦味ばしっていはいるが真摯であることには相違ない後期のArt Pepperのジャズも、また本物です。恐らくPepperも、復帰後の演奏に接して昔ながらのファンの一部が離反したことについて、自分に問い掛けた末、「俺は今そういうジャズはやりたくないし、もうやれない。」と覚悟を決めたのだと思います。「そういう人は、昔のレコードを聞いてくれ。」と言ったはずです。昔の名前で出ていても(^^;、意に染まないのに、なぞり絵のように、キレイなジャズを、もう一度やれというのは、無い物ねだりです。
とはいえ、やはり前期は凄い
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以上のようにNelsonは思いますが、事はそれ程単純ではありません。「前期絶賛、後期否定」の寺○、久保○さんらの言い分を聞いてみると、実は彼らは前期の演奏をNelsonとは比較にならないほど研究しており、その研究を踏まえた上での前期絶賛らしいのです。そしてそれ故に、前期を愛する程度はNelsonとは比較にならないほどに、熱烈です。後期Pepperに意義があるとは認めるものの、後期のレベルは前期とは比較にならない、と思われているようなのです。それ程に、「前期の素晴らしさは群を抜いており、後期とは比較にならない程の圧倒的な高みにある希有な演奏なのだ。」ということのようです。「なるほど左様でございますか、、、」と思わないでもありません。
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