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何を持ち、何を持たないか

  • 世の中にはそれなりの量の盤を持つ人は多く居ますが、Nelsonの自戒も込めて、所蔵には一定の見識が必要ではないか、というお話です。
    相変わらずのショップ巡り
  • 先日も、都合を付けて何軒か回ってバッグ一杯の盤を仕入れ、まぁ、ウニオンの来年の暦が3枚も溜まることになりました。今は、それを順番に聴いている所です。前評判どおりに良い盤、ちょっと期待を上回った盤、どうと言うことの無い盤そしてヤスケン流に言えば「クズ盤」と、色々あります。何回か聴く内に評価も定まるでしょう。ある程度の新譜も出ているようですし、マニアの放出する中古盤も品数があります。「漁盤街道は、日暮れて道遠し」程ではないにしても、「まだ先は長いョ」というところです。
    五味さんの主張
  • こういう所蔵物について、五味さんは、「多くの演奏を聴くことは大事だが、一定の期間の試聴を経た後に、駄盤を捨てる見識を持つべきであろう。」と、辛口のことをおっしゃっています。そして、「どんなレコードを持たないかも、コレクションでは重要なことである。」および「重要なのは、レコードを何枚持っているかではなく、何を持っているかである。」の章において、一々身に詰まされる物言いに曰く、、、
    • 「今日のような情報過多の時代には、情報(注:盤のことか)を集めるよりも容赦なくそれを捨てる方向にこそ、教養が要る。」
    • 「どういう曲をコレクションに持っているかは、どういう曲を持たないかと同等の意義がある。まして演奏ともなれば、それは彼が鳴らす再生装置の音色に等しなみな意味や関わりを持つものだと私は思う。いつも言うことだが、鳴っているのはその人の人生の結集しているものだ。、、、あなたがいま鳴らしている音の貧しさはあなたの生活の答えに他ならない。、、、五十年の齢(よわい)を過ぎて今、私の家で鳴っている音にある不満を見出すとき、五十年の生涯をかけ私はこれだけの音しか自分のものにできなかったのかと、天を仰いで哭(な)くことになる。」
    • 「音がよくなったところで、享受できる音楽性はタカがしれていた、、、」
    • 「こう玉石混交でレコードの発売数が多くなると、コレクションに何枚所蔵しているかより、何枚しか持っていないかを問うほうが、その人の音楽的教養・趣味性の高さを証することになる。、、、選択は、かくて教養そのものを語ってゆく。」
    • 「私の知人の音楽愛好家は、くり返しくり返し、選び抜かれた秘蔵盤を聴かれているが、いちど詳細に見せてもらったら、驚くほど枚数は少なかった。百曲に満たなかった。そのくせ、月々、、、新譜を取り寄せる量はけっして少なくない。容赦なく、凡庸なのは捨てられるわけである。」
    • 人にはそれぞれ異なる人生があり、生き方とわかち難く結びついた各人各様の忘れがたいレコードがあるべきだ。
    • 諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?

    漁盤とオーディオ
  • 五味さんや、Nelsonのような「市井の音楽ファン」にとって、漁盤とオーディオはいつも一体ですから、音楽評論家とオーディオ評論家との区別は私的にはありません。そして五味さんや、寺島さんの書かれるものが素人受け(決して侮蔑ではなく、敬意と留保を込めて)するのは、毎日音楽を聴く者にとって至極当然のことを書く人が、今も昔も少ないからでしょう。
    ということで
  • 上記の五味さんの主張に個別にコメントを付けることはしません。フム、フムと納得されるも良し、異論があるのも良し、として置きます(^o^) ただし、こんなことがあったことを思い出しました。ジャズ友達と話していて、「どういう盤を持たないかということは、どういう盤をコレクションに持っているかと同等の意義がある。」という話題に至ったことがあったのです。五味さんが40年も前に、それと同じことを既に指摘しておられたことに、今回気付きました。しかも、五味さんの論は漁盤にとどまらない、もっと徹底したものであり、オーディオを含めた音楽鑑賞の総体に及ぶ立論(あるいは極論か)であることが、現時点でのNelsonには新鮮に感じられます。

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