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Tete Montoliuの人とその周辺
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- 色んな所で調べて、浮かび上がってきたTete Montoliuの姿は、どうやら以下のようなものと思われます。
誕生
- Tete Montoliu、本名Vince Montoliu Massanaは、1933年2月28日にスペインの古都バルセロナで、Vincente MontoliuとMassana Montoliuの間に生まれました。家系としては、民族的な背景の中で、生っ粋のカタロニァ人(Catalan)であることを誇りにする血が流れているようです。父はクラシックのフレンチホルン奏者であったようですが、コマーシャルな仕事もし、自分のバンドを持っていました。母はエリントン、ファッツウォラー等のレコードを多数持っていた、との記述が見えます。誕生間もなく、目が病原菌による感染を受け、失明することになりました。
早熟
- 4才の時からピアノを個人教師Petri Palouに習い始めており、十代初めから米国のヴェテランジャズメンのDon Byasの薫陶を受けたようです。Don Byasは、第2次世界大戦後間もなくバルセロナにやってきて結果的に2年間滞在しており、テテは彼のAfter Hour Sessionに潜り込んでジャムに参加した。Don Byasは、この若者の才能に驚いて可愛がったし、また休みの日には家に入り込んで食事を共にし、その後はテテの父親のアルトを借りてテテ等とジャムったとのことです。幼い頃から米国のジャズレコードに親しんで、 Art Tatum, Earl HinesそしてBud Powell等を聞いていたようです。自身では、これらの偉人の演奏をヨーロッパ流に解釈して、演奏していました。13才からの8年余りは、バルセロナ音楽院で勉強をしながらも、56年にはスペインに来たLionel Hampton等と共演して、マドリードでサイドメンとしての初録音をしました。Hamptonもテテの才能に感嘆し、フランスへの楽旅にも連れて行きました。十代後半の50年代中期には、米国の演奏家がスペインに来た時には、いつも一緒にジャズをやるようになりました。58年には、カンヌのジャズ祭にDoug Watkins, Art Taylor(ドナルドバードのグループからの借り物)との共演ということでデビューするなど、スペインを離れて各地のジャズフェスティヴァルに出演し始めました。59年にSan Remo、61年にBerlin、63年にCopenhagen、64年にMoldeと記録があります。
60年代前半
- 60年代には、アルトのDick Spencer, テナーのBent Jaedig等とクインテットを結成しています。その後も、デンマーク等の北欧で活動するようになり、30代になった
63年にはベルリンのBlue Noteクラブでハウスピアニストとして活躍し、Slide Hampton(tb), Benny Bailey(tp), Herb Geller, Leo Wright(as), Sahib Shihab(ts)等と共演しました。この頃に、欧州オールスターズに選ばれて演奏旅行もしています。64年に、コペンハーゲンのCafe Montmartreに移り、Dexter Gordon, Roland Kirk, Archie Shepp, Kenny Dorhamらと交流することになります。
60年代後半
- 64年には、Roland Kirk, Tommy Potter(b), Kenny Clarke(ds)等と、Newport in Europeと題した欧州横断ツアーを行っています。65年には、長い付き合いになるEric Peter(b), Billy Brooks(ds)等とトリオを組み、バルセロナのJamboree Club(今はない)を根城に活躍して、Booker Ervin, Art Farmer, Lee Konitz, Ornette Coleman等を迎え撃ちました。このトリオはBologna (Italy)やAntibes (France)等でのジャズ祭に出演し、またConcentricにいれた作品はCollector's Itemとして珍重されています。67年になると、スペイン商工会議所の肝いりで米国に渡って、先ず名門ホテルのWaldorf AstoriaにDavid Izenson(b), Stu Martin(ds)とトリオを組んで出演したところ、大変な評判となって滞在の延長を余儀無くされました。そして、Greenwich VillageのTop of the Gateに、ソロまたは、Walter Booker(b), Billy Higgins(ds)や、Richrad Davis(b), Elvin Jones(ds)とのトリオで3か月にわたって出演しました。この時にImpulseがライヴ録音をしていますが、スペインのレーベルとの専属契約の関係で、発売は拒否されたままです。この演奏旅行の成功で、恵まれた演奏技術とともに、強力にスィングする力量を持った天才的なソロイストとして、世界的に知られるようになりました。
70年代
- 1971年には、ミュンヘン、ベルリン等で活動し、Dusko Goykovich(tp)等とツアーもしたようです。70年代中期以降は、録音の多い時期で、リーダー作も多く、George MrazやNiels-Henning Oersted Pedersen等のべーシストや、 Al Tootie HeathやAl Foster等のドラマーと、時に応じて編成を変えながら活動しました。またサイドメンとして共演したジャズメンも多彩で、Kenny Dorham, Anthony Braxton, Dusko Goykovich、Archie Shepp, Dexter Gordon、George Coleman、Ben Webster, Eddie Harris等がいます。特に、Dexter Gordonは、欧州随一の素晴らしくスィングする奴(cat)だ、と絶賛しました。この時期、欧州ではLubjana, Belgrad (Yugoslavia), Pori (Finland), Munich (Germany), Chateau-Valon (France), London, Paris and Brussels等で、様々な形で、テテが演奏しまくったようです。 そして1972年には、Steeplechaseレーベルがちょうど産声をあげ、間もなくこのレーベルの専属となります。1977年には、日本にソロ・ツアーをしましたが、人気には繋がらなかったようです。
晩年
- 79年と80年には、再度米国に行き、その時の有名なBoston Concertのライヴ録音が、後に発売されました。ソロでの活動をすると共に、ロスでChick Coreaと録音があったようです。この時期におけるテテの共演者は、Johnny Griffin, Slide Hampton, Joe Henderson, Dizzy Gillespie, Jerome Richardson, Buster Williams, Herbie Lewis, Billy Hendriks, John Heard, Al Tootie Heath, Serman Fergusson, Bobby Hutcherson, Niels-Henning Orsted Pedersen等々という多彩さです。また、晩年の特徴はソロリサイタルを多く行ったことで、それはThe Music I Like to Playの4巻シリーズで世に出ました。このように、1997年に64才で肺ガンのため死去するまで、活発に活動し続けました。
Teteの活動上の制約
- Teteは、不幸にして、目が不自由です。そのため、やはり行動に不自由があり、当初はスペインを出ることに困難がありました。しかし、70年代頃になると欧州域内での交通が陸上、航空ともに改善されて、彼の行動の幅は飛躍的に広がり、噂に聞いていた「スペインの凄いピアノ」が実際に多くの人に知られるようになり、また支持されるようにもなったのです。
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