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Coltraneファミリー

  • Coltraneは、北カロライナ州ハムレットで洋服屋の中流家庭に生まれて、他のジャズメンと違って幼少からの音楽訓練はなく、一家がPhillyに移った高校時代になって初めて、音楽を意識するようになったようです。高校卒業後に行った海軍から貰った奨学金を使って音楽学校で訓練を受けています。右掲の白黒写真は、Bobby Timmonsなんかと一緒に地元の若い衆にジャズを教えている光景です。その後、地元のJimmy HeathPhilly Joe Jonesのバンドで活躍しているが、その後Dizzy Gillespie、Johnny Hodges等のバンドに参加した後、Miles DavisクインテットやThelonius Monkカルテットで全国デビューを果たします。その後、Prestige、Atlanticからリーダー作を多く出しましたが、特筆すべきは「Blue Train」で、標題曲のほか何曲もがシングル・カットされて、ヒット・チャートを賑わしたことです。その後、62年に至ってClassic Quartetという畢生の自己バンドを結成して、テナー・サックスの王者にまで登り詰めたのです。その面子が、McCoy Tyner、Jimmy Garrison、Elvin Jonesなのですが、前2者とはPhilly Connectionの間柄です。
  • その後も含めて、彼がFamilyの面子に選ぶジャズメンには、McCoy Tyner、Art Davis、Jimmy Garrison、Reggie Workman、Rashied Aliと、Philly仲間が数多くいます。ちなみに、Coltraneとの歳の差で言うと、7コ下がArt Davis、Jimmy Garrison、Rashied Aliで、11コ下がReggie Workman、そしてこの中で一番下がMcCoy Tynerで12コ下です。米国では大概が9・3年制ですから、同じ学校に在学することは無かったと思われます。むしろ年上の方が同時在学の可能性があり、Jimmy Heathとは同い年、Philly Joe Jonesは3コ上の兄貴分ですから、共に地元のスタジオ等で練習に励んだり、薫陶を受けたりしたのでしょう。Philly生まれの同い年、つまり1926年生まれのジャズメンでは、Jimmy HeathとJymie Merritが有名で、特にJimmy Heathとは気が合ったようで、作曲もやる彼とは12音階とか、ストラヴィンスキーの曲とかを一緒に勉強したようで、それが後のColtraaneの音楽に大いに影を落とすのでした。Charlie Biddleは第2次世界大戦後すぐにカナダに移住しました。1コ下にStan Getzがいますが、彼は直ぐにブロンクスに引っ越したので、地元でのジャズ活動は無かったと思われます。
  • 彼が面子に選んだPhilly仲間は、何よりもColtraneのジャズに対する真摯な探求の姿勢を見て集まったジャズメンが多かったに違いありません。Coltrane側から見ると、人づての知己もいたのでしょうが、単に人柄が良さそうとか、目に付いたからだけではなく、やはり自分なりの「トレーン流」を理解し、刺激を与えてくれる人だったのでしょう。左掲の写真は、McCoy TynerやJimmy Garrisonらと歓談している光景で、下掲の精悍なベーシストはReggie Workmanです。
  • もう一つジャズと関係ないようでいて、実は関係が結構根深そうなのが、最初の妻とのNaima Connectionです。Naimaには、前夫との連れ子のサイーダが居て、Coltraneは結構可愛がっていました。楽旅でほとんど家にいないColtraneは済まなく思って、家族一緒の時間が取り易いNYCに転居します。Naimaは狂喜するほど喜び、一時的に幸せな生活を送りました。Coltraneはどうやら、Naimaに自分の子をが生んで欲しいと願うタイプのオトコでした。しかし幾度かの流産の末にNaimaの不妊が確定した頃から、白人女性や黒人女性との不倫にColtraneは逃げ込み、後者との間の子供、シーラを認知しました。Naimaは古いタイプの女性で、そうしたことを知りつつも、不妊の引け目もあったのでしょうか、Coltraneを責めることが出来なかったようです。その後の1964年頃、Terry Gibbs楽団にいたAlice Mcleodと親しくなり、ゴタ付きはしたものNaimaとは離婚し、Aliceとの間に新たに3人の子を設けます。
  • 日本ツアーで小山ボックスマンの問いに対して「聖者になりたい。」と答えたことは直ぐに彼らしいスピリチュアルな発言として、世界を駆け巡るように知れ渡ります。藤岡さん達の綿密な研究により、その時にAliceは軽く笑い、Coltraneがそれに気付いて照れ笑いをしたのは何故か、というウラの事情が明らかになります。つまり、その「聖者」発言の依って来る所以は、4人の女性との結婚と不倫が絡み合う関係の清算の意味もある、とも解すべきことが判って来たようです。
  • かの名盤「A Love Supreme」は、Aliceとの密会と言うか、雲隠れ中に懐胎された構想でしたが、その前後からColtraneは、Aliceとの将来を確定的に受け止めたようです。Naimaとの別居後に買った新居の一室で、何日も徹夜して書き上げた曲には、実生活と音楽とが綯い交ぜになった面がありました。「正道を外れた生活」と自白した同盤の自己解説の詩と、「承認」、「決意」、「追及」、「賛美」という、ある意味でベタですらある4楽章立て、等々を敢えて試みたことにも、その懊悩は現れています。この名盤は、従来路線のClassic Quartetの総仕上げでありつつも、過去の清算とでも言うべき、懺悔に近い苦悩の昇華でもあるという二面性を持つために、仕上がりとしては破綻するリスクがあったのですが、奇跡的にそこを突き抜けた高みに到達しています。確かにNaima時代に比べたAlice時代には、彼女が持ち込んだと言って良いだろう「コスミック音楽」と、下世話な愛の結晶の誕生とを、Coltraneにもたらしました。となれば、Naimaとの離婚は、必然のことだというしかありません。4人のオンナくらいで何を騒いでるの・・・俺なんて10人(モガモガ)・・・と言う大向こうからの声もありそうですが、ことほど左様に杓子定規なのがColtraneらしさでもあります。
  • 以前からRavi Shankarに関心があり、身近なAliceの志向もあって、Coltraneはコスミック音楽の色合いを演奏に加えようと試み始めます。それは、従来からのColtranのアプローチからしても、それほど突拍子も無いこととは思えない面があります。Miles Davisクインテット時代に、Coltraneは御大から「お前のアドリブは、どうしてそんなに長いんだ。」と良く聞かれており、「イヤ、アイデアを一巡りするまでは、終わる気がしないんで・・・」と答えていました。Milesは「そんなの・・・楽器を口から外せば済むことだろうよ。」と呆れながらも、Coltraneをクビにしない度量がありました。Coltraneはアドリブのオプションが沢山見える人で、「その全部を一巡りしないと、終わる気になれない。」と考える人でした。その枝分かれの数々を全部経巡り、経巡りしていく時の漂流感には、コスミック音楽の浮揚感に通じるものが元来あったので、Aliceの音楽性と相性が良かったのも頷けます。
  • Nelsonは古希を疾うに超えた老人ですから、McCoy Tynerが「Ascention」以降に直面した、12、24、あるいは32とかいう小節枠、更にはコードやモードと言った音の調性・・・こういった概念が無いジャズの良い聴き手ではありません。リフ気味の短いフレーズ、反復するリズムの浮遊感、そして混沌かと見えて次第に晴れ渡ってくる凝ったハーモニー、と単純に言うのは見当違いであり、かつ失礼なのでしょうが、そういったフリーともまた違うコスミックな音楽展開にMcCoyやElvinが戸惑ったことは、Nelsonなりに共感できます。当時のPharoah Sandersや、Rashied Aliの凄絶な雑音・・・じゃぁなかったか、モトイ、轟音に自分のピアノの音が埋もれてしまっているモニター録音を聞いて、「これでは、自分が居る意味が全く無い!」と言う下世話な不満がそれに輪をかけたのでしょうか、McCoy Tynerは視線を落とすことなく、従容として舞台から降りました。
    (Miles Davisが求めようとしたらしい「どファンク」の世界等と同じく、曲とか曲想とか、更にはアドリブの展開と受け答えとか、そういう古典的な枠組みが無いジャズの良い理解者で無いNelsonは、このサイトであまりその辺をメモしません。ロックやサイケに心動かされなかったこともあり、その辺りはその辺りで、メモすべき人がメモすれば良いと思います。)
  • ここでの話の要点は、ColtraneがMcCoy Tyner、Art Davis、Jimmy Garrison、Reggie Workman、Rashied Aliと言ったPhilly仲間との切磋琢磨を通じて追い求めた自己研鑽の道程なのに、色んなことを長々と書いてしまいました。
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