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Bud Powell(2)

  • Bud PowellとPhiladelphiaの絡みについてメモの後半です。このメモの前半はこちらです。
    兄弟してPhillyで数年を過ごす
  • 生粋のPhillyっ子だったMcCoy Tynerは、親の勧めもあってピアノの練習を始めましたが、最初は近所の家のピアノを使わせて貰っていたという。そのうちに母がやる美容室の常連が増えて暮らし向きも良くなり、アップライトながらピアノを買って貰えた。するとMcCoyは直ぐに友達を呼んで自宅でジャム・セッションをするようになった。市内には育ち盛りの若手にLee Morgan(tp)Archie Shepp(ts)、Bobby Timmons(p)、Regie Workman(b)等が居て、互いに切磋琢磨していた。そして50年代の初めになると、家の近所にBudとRichieのPowell兄弟が移って来た。
    Richieが母の故郷であるPhillyに引っ越すことを決めて、まだ警官による暴行の傷が癒えていなかったBudも、弟の近くで暮らすことを選んだものと思われる。この時点で既に二人共に、プロのジャズ・ピアニストとして知られていたので、McCoyも教えを請うたらしい。McCoyはBudのピアノに傾倒して、特にそのダイナミックさに圧倒された。Budは、バップ・ピアノで左手の使い方を定着させた偉人だが、左利きだったMcCoyは彼と、その弟のRichieから左手の奏法を学んですっかり会得した。そして彼なりの工夫として、もっと低音重視の音選びに加えて、音に厚みを持たせた。更には、ここぞという時に左手を高い位置から打ち下ろして、凄まじい迫力を加えて印象付けるという独特のスタイルを編み出したが、それはPowell兄弟の影響が大きいんだと述懷している。この左手での4度展開のコードと、トレーン流だと思える右手の8や16分音符の細かいシングル・トーンに、3連符を交えるMcCoyのピアノ奏法は、トレーン自体のサックス奏法と同様に、60年代後半から現在に至っても尚、本線モダンジャズの基本スタイルとして、どのジャズメンも一度は通る通過点となっているのはご承知の通りです。
    この間のTVでも・・・
  • 先日の阿川佐和子さんのTV番組で、あの大江千里さんが日本でのそれなりの地位をなげうって、NYCに単駈出かけてジャズ・ピアノを素から学び直さんばかりの暮らしに挑んだ快挙から、その後の一時帰国迄のNYCでの苦闘のこもごもを聞き出していました。そこでも、阿川さんの求めに応じて、大江さんが渡米修行の根底にあった「何故、ジャズなのか」の例示に、同じ曲をポップス風、ブルース風そしてジャズ風に弾き分けて聞かせており、やはり左手の動きで話しが盛りあがっていました。事ほど左様に大事な左手の奏法について、McCoyはPowell兄弟の、特にRichieから多くを学んでいたと語っています。そしてそのRichieは、シカゴのギグに向かっていた運命の夜に、同乗していたカミさんとBrownieと共に、3人全員が交通事故死をするという悲劇に見舞われたのは、この数年後の、1956年のことでした。
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