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Bud Powell

  • Bud PowellとPhiladelphiaの絡みについてメモするとすれば、ハレム生まれの彼が一時期、1950年代でしょうか、弟のRichie Powellと一緒にPhiladelphiaに住んでいたこと、その10年前にはCootie Williams楽団のギグで同市に来た時に警察にヒドイ扱いをされたこと、そしてMcCoy Tynerがその頃の彼ら兄弟と付き合っていたこと・・・等に触れることになります。今回はその前半です。
    ジャズ・ピアニストばかりが15名コラージュ(by Francis Paudras and Bernard Maury, Le Jazzophone)されてますが、全員の名前が言えたらスゴイ! (Nelsonは11名で早々と降参。)
    兄弟してのハレム育ち
  • Bud Powellは1924年のNYCはハレムの生まれで、親父さんがストライド・ピアノを弾いて飯を食っていたというから、やはり米国はスゴイ。先輩で19年生まれのMonkを師としてジャズピアノを弾くようになり、弟のRichieも少し遅れて同じジャズ・ピアニストの道を進みます。天賦の才があったのでしょうか、Budはちょっと神がかった、バカっ速い運指で直ぐに頭角を現しました。現在の本線モダンジャズにおいて多用される、右手でシングル・トーン、左手でコードを弾き、ベース、ギター、ドラムスのいずれかを伴ったピアノ・トリオでジャズを聴かせるというスタイルを定着させるのに一役買った偉人です。母親が面倒見の良い人だったようで、同じハレム育ちのSonny RollinsやJackie McLean等が自宅に遊びに来ては、勃興期にあったモダンジャズの何たるかを教わっていたと言います。
  • そのままであれば、もっとジャズ界の中心にいて大活躍する人に成れていたのでしょうが、黒人差別のひどかった時代の犠牲となって、Phlliy市内で警官に撲殺寸前の虐待を受けてしまました。その後の彼のピアノは、有り得た筈の一段のピアニスティックな飛躍を果たすこと無しに終わりました。しかし60年代以降の彼の作品は、不思議なことに今も愛されています。さすがに天才であっただけあり、独特の味わいがあって、捨てがたい魅力があるからです。
  • この辺は省略すべきなのかも知れず、「何だ・・・ジャズの演奏とは関係ない話じゃねぇかよぉ・・・」と言われれば、確かにそうなんですが、しかしそういう時代、そして世の中があったことは事実で、忘れてはならない気がするのでここにメモしておきます。
    浮浪者と間違われて・・・
  • 事は、1945年1月のことだと聞いています。Bud Powellは、ビ・バップの勃興を目の当たりにして、DizzyやBirdの活動に深く関与したかったのですが、母親が「もっと地道な生活をしてくれないかい。」と言い張り、王道を行くCootie Williamsのダンス・バンドでピアノを弾いていました。その公演でPhillyに来たある日の深夜、それこそ丑三つ時にギグが終わり解散となります。Budも通りに出て、あっちこっちと飲み歩いているうちに泥酔してしまいます。警官の誰何を受けても要領を得なかったので、乱暴な扱いを受けてトラ箱に入れられてしまいます。その時に警棒で頭部をかなりしつこく殴られてしまったのです。
  • 生きる知恵のある黒人なら、深夜、酔っぱらって歩くのは危険だと避けたのでしょうが、少し無防備に気を許してしまったのでしょうか、このことで頭に大きな障害を与えられて、一生を台無しにされました。ご時世と言うこともあり、ロボトミーのようなことが平気で行われていて、何度も電気ショック療法をされてしまったBudは、普通の精神状態を保つことが難しくなりました。それまでの彼にはそう言うことは無かったので、その時の警官の暴行がそれを招いたのに間違いありません。
  • Budはとても動けない状態になってしまって、結局、バンドを抜けてNYCに戻り、3か月近い療養生活を送る羽目になります。黒人のジャズメンは、多かれ少なかれ同様の眼に会っており、アノMiles Davisなどもヒドイ目に会っていますが、その不運を何とか克服した一人です。療養の甲斐あって体調を回復したので退院すると、直ぐにBudには方々から声がかかります。マンハッタンの52番街辺りで、Budは毎晩引っ張りだこになって、ビ・バップの隆盛に一役買います。その頃、Budのように新鮮なフレーズと解釈で、しかも眼にも留まらぬ速さでアドリブを繰り広げるピアニストは、他に居なかったのです。
  • ファンも、クラブの経営者もBudのピアノを聴きたがったそうです。退院後も体の調子が良い時のBudは、正に「アレヨ、アレヨ・・・」のアドリブを繰り出しましたが、調子が悪くなるとピアノの前に座ったままで、手を動かすことが出来なかったようです。すると、Thelonius MonkなどがBudを退かせて、代わりにピアノを引くのですが、火を噴くようにアドリブ・フレーズを繰り出し続けるBudの真似は、とてものことに誰にも出来ません。
  • Budの母親の故郷がPhlliyだったので、弟のRichieはPhillyに居を構えて活動するようになり、Budも時々弟の所で過ごしました。
  • その後、Budはパリに行き、彼の地で歓迎されて小康状態を維持します。欧州のファンは米国と違って黒人には優しく、後遺症がしぶとく残るBudを尊敬しつつ、ジッと見守り続けたと言います。結局、Budは完全には回復しないまま、それでも多くの素晴らしい演奏を残してこの世を去りました。
  • PhillyでRay BryantやMcCoy Tynerに影響を与えた話は、次回になります。
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