13才の時に、Cliousclat Festivalでプロ・デビューをしている。この時にはあのヴェテラン・トランペッターClark Terryも出演しており、ピアニストを探していたため、Michelが「トラに入っても良い。」、と言ったところ、Clark Terryは冗談だと思ったらしい。しかしMichelが「ブルースでもやろうょ」といって弾き始めるや否や、Clark Terryは直ぐにその才能を見抜き、Michelと共演することになった。16歳の時にパリに転居したMichelは、ドラマーのAldo Romanoと出会い、Michelは彼のバンドで働くようになった。その後はAldo RomanoがMichelの守護天使となった。Michelのデビュー盤は、1980年に録音されたFlashであり、兄のLouisがベースで参加した。OWL Records
その後、OWL Recordsの制作者Jean-Jacques Pussiauと出会い、1981年から85年の間に、6枚のアルバムを出している。その中でも、初の米国への旅で出会ったLee Konitzとのデュオ・ツアーに伴って録音されたToot Suiteは本人もお気に入りであると言う。多くの人が自称「発見者」を名乗っているが、本人は、このように、自分はAldo RomanoとJean-Jacques Pussiauによって「発見」された、としている。パリでの生活は、ジャズメンとして駆け出しのMichelには最高の環境であったが、「問題もあり、それはヤクと、性悪女なんだけど、幸運なことにまぁ何とか切り抜けたョ。」1981年には、the Paris Jazz Festival(Theatre de la Villeで開催)に初登場している。82年に、Michelは米国行きを決意し、ニューヨークで暫く演奏活動をして、金を作った。Charles Lloydとの邂逅
友人から、Charles LloydのCaliforniaでの隠れ家の住所を手に入れたMichelは、西海岸に移ることにした。そして、カリフォルニアでNew Mexico生まれの妻Erlindaに会うことになる。その後、Lloyd邸を訪問して、二人は意気投合したが、その経緯には色んな説があって面白おかしく脚色されている。その説の一例がここにあるが、真偽は保証しない。本人の弁によれば、3日間寝る時以外はブッ通しでデュオをやりつづけ、Lloydが使えと言ったトレーラーでMichelは寝ていた、ともいう。ただ共通した指摘はLloydの再起を動機づけたことであり、Michelをメンバーに入れたバンドでLloydは活動を再開することにする。この時の様子の再現ヴィデオが、"Non Stop - Eine Reise mit Michel Petrucciani(ノン・ストップーMichel Petruccianiとの旅)"(1995, 60 minutes, color, German, A film by Roger Willemsen)のようであり、Charles LloydがPetruccianiをBig Surの自宅で歓待した様子が4分間ある他、Lloyd が有名なBig Surの海岸をバックにテナーを吹くシーン、二人の出会いについての会話シーン等があるそうなので、是非見てみたいものである。その後、3年間にわたってMichelとLloydの共同作業は継続し、3枚のアルバムが出されている。Michelは、Lloydの紹介で、Roy Haynes、Al Foster、Jack DeJohnette等のドラマー、Charlie Haden、Dave Holland、Gary Peacock、Eddie Gomez,、Stanley Clarke、Cecil McBee等のべーシスト、Jim Hall、John Abercrombie、John Scofield等のギタリスト、Joe Henderson、Wayne Shorter、David Sanborn、Gerry Mulligan、Dizzy Gillespie等々との共演を果たした。この時期にMichelは再びNew Yorkに転居し、Carnegie HallでKool Jazz Festivalの一環としてソロ・ライヴを行い、それが米国での人気の高まりの切っ掛けとなった。 1983年はめでたいことが重なった年であり、Los Angeles TimesがPetruccianiをJazz Man Of The Yearに選定し、イタリア政府文化局が"Best European Jazz Musician"として表彰し、フランス政府も負けじと"Django Reinhardt"賞を授与した。(以下、人とその周辺(2)に続く)