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J.R. Monteroseの人とその周辺
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- まぁ、あまり人気者と言うわけでないですが、素晴らしいテナーサックスを吹くJ.R. Monteroseの姿は、以下のようです。
誕生
- J.R. Monteroseは、1927年1月19日にデトロイトでFrank Anthony Monterose Jr.として生まれました。そして1歳の時に、その後ずっと住み続けるNew York州のUticaに一家で引越しをしています。何故か、名前の末尾のJr.を採って、J.R. Monteroseと名乗っています。なんとも面白いことに、この人と混同される事が多いJack Montroseは2歳年下で、同じデトロイトの生まれで、終始西海岸で活動しました。J.R.がジャズの道に踏み込んだのは、Artie Shawの演奏を聴いたのがきっかけらしく、13歳の頃からクラリネットを始め、その後Coleman HawkinsやChu Berry、Tex Benekeを聴いて、テナーに転向しました。
- 高校のダンスバンドで演奏していましたが、学校時代からモダンジャズのハーモニーに惹かれ、コード進行などはBud Powell等のピアニストの演奏で勉強したようです。20代は地元のバンドで演奏をしていましたが、この時期にSonny Rollinsの演奏を何かの機会で聞いたらしく、家に帰って直ぐにStan Getzのレコードを全てブン投げてしまった、、、というほどに大きなショックを受けたといいます。ことほど左様に、この人の演奏は豪快であり、大括りではRollins系ということになります。
ジャズで飯を、、、
- 1950年にはHenry 'Hot Lips' Busse楽団で過ごし、1951年にはBuddy Richのバンドに入っています。当時、このバンドには、Dave Schildkraut、Allen Eager、Philly Joe等が居たのですが、中々吹奏の機会が貰えなかったので直ぐに止めてしまいます。また地元に戻りましたが、ブルースバンドの仕事しかなく、ある日嫌気がさして演奏の途中でフケてしまって以来、殆ど仕事の口がかからなかったようです。1954年にはNYに出て行き、Claude Thornhill orchestraに参加し、注目を浴びます。同バンドには、Gene QuillやDick Shermanが居て仲が良くなったものの、またしてもビッグバンドでは十分に吹けないと感じて止めてしまいます。その後は、小編成での演奏活動を続けます。
録音デビュー
- そして1955年1月にTeddy Charles 'New Directions' Quartetで初録音を行い、これを皮切りに幾つかの録音デートに参加するようになりました。1956年には、あのTeddy Charles Tentetの録音に参加し、更にCharles Mingusの名作「Pithecantropus Erectus」の録音となります。Monteroseは、このMingusワークショップでの演奏に刺激を受けており、一週間位の練習の後に上記盤の録音をしたときは、非常に興奮したと言っています。ただし、御承知のとおりのMingusの性格で、練習中に血を見ることがしょっちゅうあり、正に気が向くままの指揮になるので、時に「まるでメチャクチャ(Utter Chaos)」になってしまうことから、半年ほどでメンバーから抜けてしまいます。Kenny DorhamのJazz Prophets盤の録音が、この頃にありました。Dorhamとの相性は良かったようですが、Dorhamはリーダーとしての商才がさっぱりであり、同バンドは直ぐに解散してしまいます。
演奏の方向
- 「音楽の素養が無くてもあったかい演奏をしたい。知的でクールなんて願い下げだ。、、、勉強や練習は大事だよ。でも、内から湧き出るものが無きゃぁ。、、、Art Tatumがピアノでやったことを、Birdはアルトで全部やった。Artは勉強だけしてたんじゃない。あのレパートリーは勉強したんじゃない、耳で聞いて、ハート全体で演奏したんだ。」とMonteroseは語っています。そうこうしている間に、Blue Noteから初のリーダー作「J.R. Monterose」を発表することとなります。50年代末にはまた地元のUticaに戻り、Albanyのクラブでやった日曜夜のギグが評判になり、一年以上も続けました。名盤「The Message」の制作に当ったManny Albumは、当時のことを次のように話しています。「明確に彼と判る音出しであり、また実に面白い曲を書いていた。吹奏が段々agressiveになって行って、誰の影響も読み取れなかった。」本人の弁は次の通りです。「Charlie Parkerに大きく影響されたし、Sonny RollinsやJohn Coltraneが好きだ。でも、コピーはする気が無い。自分自身の演奏ができないのなら、ジャズをやっている意味が無い。」このための一番の練習方法として、適当なコード進行、あるいはスタンダードのコード進行をサッと選んで、それで演奏してみるということを続けたようです。
様々なギグ、そして訪欧
- 1960年にはベルギーのギタリストRene Thomasの米国デビュー盤「Guitar Groove」に参加しています。Monteroseのこのような遍歴を見ていると、ジャズは演奏したいし、飯は食わんきゃならんし、ビッグバンドにゃ向いてないし、、、ということになりますが、それを自分でも悟ったのか、避暑地などの小さなクラブでの仕事を探し始めます。いわゆる「包丁一本、晒しに巻いて」の世界です。そして遂に、1963年にはアイオワに行って、丁度クラブを開いたばかりだった「The Tender Trap」というクラブにひょんなことで2週間仕事を見つけましたが、結局10か月も居続けることになります。このときの録音が「In Action」であり、ライブ盤が「Live at the Tender Trap」となって最近発売されました。1967年には西海岸から欧州にわたり、そこでナント8年も居続けました。特にオランダの首都アムステルダムでParadisoというクラブに出たときは、非常な評判となりました。この時期前後には、John Coltraneのアプローチを消化した演奏が見られ始めます。ここで「Body and Soul」盤を残しました。
Croscrane
- 70年代から80年代にかけて、JRは色んなツアーには出るものの、平素はNY州の実家近くのクラブ、「Gemini Jazz Cafe」を根城にして、ワン・ホーン一本槍で、レギュラーメンバーで演奏し続けていました。その中の幾つかのギグはライブ録音されて、Croscraneというインディー・レーベルから出ています。商業的な流通はしておらず、発売元からの直売でしか入手できません。1978年から87年まで、約10年間にわたって着実に、JRの演奏を記録し続けた意義は大きいと信じます。バンドには、古い仲間のTeddy Kotick(ベース)等も居て、上質なモダンジャズを聴かせてくれており、都合12,3枚はあるので、普段着のJRを聴くには持って来いです。。
そして帰国
- 70年代半ばに帰国しましたが、交通事故などがあって活発な演奏活動はしていません。1981年になって、Tommy Flanaganとのデュオで、「A Little Pleasure」を世に問うています。暫く地元での活動を続けると共に、1988年にはHod O'Brienと一緒に、ベルギーを再訪して、傑作「T.T.T.」を録音しています。1990年、91年とスペインに行っており、Fresh Soundに2枚の盤を残しています。そして、1993年9月26日に癌で鬼籍に入りました。実力はスゴイんだけれども、気が乗らない仕事はやらない、、、という、まぁ、偏屈さもあって、いわゆるビッグネームの一歩手前の位置に居続けたジャズメンらしく、その訃報はメディアでも殆ど報じられなかったそうです。
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