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あの「中腰(ちゅうごし)」に見る飽くなき模索 : Derek Smithと板橋文夫のピアノ

    Derek Smithの曲を板橋さんがやったら、、、
  • ちょっと無理筋ですが、Derek Smithです。
    Derek Smithの'Summertime' from 'Love for sale/ Derek Smith (PROGRESSIVE PCD7002)を聴いてみると、、、
  • (Derek Smithのファンには申し訳ないことを書きそうなので、これから先は読まないで下さい。)
  • Derek SmithのSummertimeは、これをこれだけで聴くと、楽し系のジャズで、まぁ指も良く動いて、軽めながらスィングもしています。よく聴くと、板橋フレーズと似たくだりがそこここに聴けますし、まぁ似ている範疇に入るかもしれません。しかし、しかし、、、当たり前かもしれませんが、板橋さんとはかなり違います。Nelsonが板橋さんを聞くのは、やはりその旋律、スィング感もありますが、その演奏の「止む(やむ)に止まれなさ故か」、とこのDerek SmithのSummertimeを聴くと思います。
  • それはこういうことです。Derek Smithはその流暢な、あるいは時に饒舌な語り口によるスィングするジャズに身を委ねたい時に楽しむと言う感じですが、板橋さんのピアノには「もっと何か」を求めてしまうし、それが板橋さんの音楽にはある、ということではないかと思います。二人の共通点はしっかりした訓練に裏付けられた強いタッチです。しかし、それがそうであっても、その先はかなり様子が違います。Derek Smithを聴くときには求めていないものが欲しいときに、板橋さんのピアノは「砂に染み込む水」のように渇きを癒してくれる面があります。
  • 確かに、板橋さんも時にキャラキャラと弾きますが、その部分は全体の中のその部分でしかなく、演奏全体を大きく見れば、「もっと深い」と言うのが言いすぎであれば、本人すら予めはわからないものを模索している感があります。そしてその決して容易ではない模索において、「これじゃない、これでもない。」、と時に焦れながらも、でもその模索を止めない、止められない、止めてしまえば文夫ではない、という業(ごう)のようなものが、板橋さんの演奏には隠れていると思っています。
  • それが、あのダジダジであり、両手コブシ打ちであり、椅子代わりのビールケースになかなか座らない演奏スタイルである、と思います。すなわち、座ってもいない、立ってもいない、正にあの「中腰」という姿勢は、「ジャズにおいて予め決められていることなどはない、自分が切り開いていくその過程、模索こそジャズであり、座位・立位という安定した安楽な状況から生身をメリメリと引き剥がして、不安定であろうと、見苦しかろうと、ひたすら前へ、前へと立ち向かう姿勢に、我と我が身を追い込み続けて行くんだ。」と発心(ほっしん)していることを、恐らくは端無くも露呈している、とNelsonは受け取っています。あの正統的とはとても言えないピアノ演奏姿勢が、たとえ傍目には奇態な営為に映るとしても知ったことではない。「とにかくオレは前進するんだ、ホントウのジャズをこの手に掴むんだ。」という姿勢、あえて言えばチベット密教の「五体投地」にも似て不器用な、あの中腰は、Nelsonに強い連帯感を抱かせます。そして恐らく、平生はまったく別の社会生活を送っているファン達も板橋ライブに遭遇すると、「そこだ、頑張れ。」と板橋に拍手をしながら、実は「オレも、明日は頑張ろう。」と心に期する、という良い連鎖がそこにあるのではないか(、とまた筆が滑るのでした。臭(クサ)すぎるか、と反省m(^^)m。
  • しかし、(ケチをつけていると誤解しないで下さいネ。)このような絶えざる模索というスタイルは、言ってみれば「砂を掴むのに似た営為」であり、「今、オレは正に掴んだ。」と確信しても、暫くすれば砂(すなわち自分)は指の間から漏れ落ちるという不安定さから逃れることは出来ません。次に同じ手順を踏んだからといって、もう一度掴みなおせる保証などそもそもないからこそ、それを模索というのですから。模索には、そういう刹那的な面があると何度も思い知らされることがありながらも、即興芸術に平坦な王道などはないことを噛み締めて、板橋さんは「今日も行くっきゃない。」と臍(ほぞ)を固めておられるのではないか、と想像しております。(太田恵資さんに贈る板橋さんの言葉にも、このような趣旨の言及がありましたから、まんざら見当違いでもありません。)
  • 本題からそれましたが、要すれば、Derek Smithのように、ちょっと聴きに似ている人がおり、例えば指力なんかも相当にありそうだなぁ、という気がしたとしても、よく聴くと板橋さんとは相当に違い、そしてその違いこそが板橋さんの本質なのではないか、ということです。
  • ということで、これをブライドフォールドテストでやっても、「板橋さんだ」という人などは居ないでしょう。
    蛇足ですが、、、
  • Derek Smithは更に、中高音のトレモロを板橋さんのようには使いません。このトレモロと両手による分散和音の分厚い音は、恐らく板橋専売の「泣き」の表現ではないかと思います。その意味でDerek Smithは演奏のスケールは余り気にしていないのでしょうか、リズムも軽快になっています。言い過ぎかもしれませんが、Derek Smithの場合は「屈託がなさ過ぎ」るように聞こえる場合があります。Derek Smithはやはり西欧音楽系の音出しですから、何曲か聞くと板橋さんはこういう風にはやらないなぁ、という点が目立ちます。
  • もうひとつ、Derek Smithのやるベース、ドラムスと、板橋さんに付き合う井野さんや、森山さんとの違いがあるのかもしれません。板橋さんも決して一人で、板橋ピアノをやっているわけではなく、やはりメンバーを選んでおり、その人たちはどちらかというと「軽快な」というよりも、引きずり気味の、と言うのとも違いますが、粘るタイプのリズムではないかと思います。そういう全体が、重めの、苦めの音楽となっているのかなぁ、と感じます。
  • それから、これは言って良いのか、悪いのか、上記の人たちはDerek Smithも含めて、曲の終わり方は比較的淡白ですねぇ。板橋さんは、最後の盛り上がりでガーンと来て、更にガーン、ガーンとやる癖があります。(時に、最後の最後のシメが決まらないことすらあります(^^;) 大したことではないですが、あの終わり方が良い、という方も何人かいらっしゃいますので、、、あのような最後のシメにおける、独特のドシャメシャハチャも板橋さんの特徴かもしれません。
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