(Home - Those Groovy Cats - Booker Little / BACK)
BOOKER LITTLEの人とその周辺
|
- この道の先達アラン・ソウル等の調査に、Nelsonの聞き込みによる実感とをない交ぜにした、BOOKER LITTLEの姿は、以下のようです。
誕生
- Booker Little(本名にはジュニアが付くので父か祖父と同名かと思われる)は、1938年4月2日にテネシー州メンフィスで生まれた。父はトロンボーン奏者、母は教会のオルガニスト、姉もオペラ歌手との記述がある。12歳のときにはトランペットの練習を始め、高校では米国での通過点であるマーチ・バンドで活動している。Dee Dee Bridgewaterの父、Matthew Garrettが区域の高校の一つであるManassas High Schoolで彼、George Coleman、Frank Strozier等を含む若者に音楽を教えていた。この時期に、特にGeorge Colemanとの交流が親密であったらしく、いろいろな教示を受けたという。ご存知のように、メンフィスはジャズマンの宝庫の一つであり、この人も若い頃のPhineas Newborn、Harold Mabern, Louis Smith(従兄弟)やGeorge Coleman等と友達付き合いをしていた。その後、55年には、Frank Strozierとともにシカゴ音楽院に通学しており、トランペット、ピアノ、音楽理論、作・編曲の勉強に邁進した。この頃から、ブッカーは、Charles MingusやDukeEllingtonの音楽に非常な関心を示し始める。
Sonny Rollinsとの同居
- シカゴ音楽院でのルームメイトがSonny Rollinsであったという(ホントらしい)。彼らはYMCAに住んでいたが、練習が好きにできる地下室も借りていた。Sonny Rollinsが持っていたレコードで知ったClifford BrownにBooker Littleは傾倒していったが、後にSonny Rollinsの忠告もあって、その影響から抜け出るべきであり、自己のスタイルの確立が大事であることに気づいた。それに成功したことは、Clifford BrownのValse Hotにおける演奏と、Booker Littleが好む同じワルツのいくつかある演奏を比較すれば良く分かる。58年6月に、そのロリンズがClifford Brown を失っていたMax Roachに、知己のブッカーを紹介した。ローチは、この二人の天才に共通する面を見出したのか、さっそくブッカーをGeorge Colemanと共に、彼の新編成のバンドのメンバーとしている。ブッカーも同音楽院での3年間の勉強で、クラシックについての知識は十分だと感じていたし、またクラシックでは飯は食えないと思っていた。このバンドによるOn the Chicago SceneがBooker Littleの初録音となる。このバンドのライヴでの初舞台は58年のNew Portジャズ祭であり、録音も残っている。この時に、後の盟友Eric DolphyがChico Hamiltonのバンドで、彼らの直前に舞台に出ており、それが映画「真夏の夜のジャズ」に記録されている。このバンドは全国ツアーにも出たりしつつ活動を続け、そしてブッカーも、ニューヨークに出て、フリーランスも含めてTeddy Charles, Mal Waldron, John Coltrane, Abbey Lincoln, Sonny Stitt, Ed Shaughnessy等と活動している。
Max Roachのバンド−58年
- 50年代末というハードバップの成熟した時期に活動を本格化させたブッカーは、その確立された演奏スタイルに完全に溶け込むというよりは、その次に来るフリーの時代の予兆的な動きのほうに関心が向くようになっていった。その引き金となったのは、Max Roach、Charles Mingus、Teddy Charles、Mal Waldron、そしてJohn Coltrane等との共演である。中でも、Max Roachのバンドでの経験がブッカーのその後の志向を加速させた面が強いと感じる。その時期、Max Roachはピアノレス、3管フロント、変幻自在のリズムという新鮮なスタイルを早くも採用している。そして取り上げる曲も、Nelsonのような素人にも分かる「苦い」、「分厚い」、「硬派な」、「恨みがましい」スタイルで提示される。そのような活動の中で、手探りながらしっかりしたスタイルにブッカーがまとめかけているものは、ハードバップに安住せず、そこから脱脚して「もっと言いたいことを率直に表現するスタイル」ではなかったかと思う。しかし、その未だ生硬な演奏スタイルは、完成された感はなく、例えば評論家の岡○氏をして、「未熟」という表現を使わせるレベルに止まっていた。別に岡○、油○両氏に異議を唱えるのではないが、Nelsonの感じるところでは、その「未熟」という表現は、演奏技術などを言うのではなく、そのスタイルがまだ完成してはいない、というほどの意味であろうが、それにしても間違っている。ブッカーの目指し始めたそのスタイルは、その志向からして決して完成されることはない。完成しないままに、極言すれば「永久に手探りでありつづける」という、芸術には付き物のひたむきさ、脆弱さが現れているだけのことであり、「ツマランものを完成するくらいなら、別に完成なんかしなくって良いモン」、という世界ではなかろうか。そんなブッカーが出会ったのが、同じような志向を持っていたEric Dolphyである。
Far Cry(遠い道のり)−60年
- そのEric DolphyとBooker Littleが初めて録音で共演したのが、Far Cry(60年12月)であり、何とも意味慎重な「遠い道のり、あるいは日暮れて道遠し」という表題のこの盤は、形式的には双頭クインテットであるが、どちらかというとEric Dolphyのショウケースとして、彼が種々の楽器の持ち替えで独特の雰囲気を出している。彼らの共演が、この時期が最初であるかは不明である。というのは、この時期にStraight Ahead/Abbey Lincoln(61年2月)とOut Front/Booker Little(同3月)の録音があるので、共演が続いていた可能性が大きいからである。そして、5月にはJohn ColtraneのAfrica Brassに二人で参加している。そして7月に、次に述べる彼らのいずれにとっても演奏活動の頂点となるライヴに達する。
Five Spotでの2週間のライヴ−61年
- Eric DolphyとBooker Littleは、Dolphyのほうが10歳ほど年長であり、同様の志向を持つもの同士の共感はあったものの、どちらかというとDolphyのほうがリードしていく形ではなかったかと思う。しかし、Booker Littleの音選びは独特の美しさを持っており、それが同じバンドで演奏を共にした場合に、巧まざる相乗効果を持って全く新しいジャズの到来を告げる演奏となる。それが世に「ジャズ史上最高のクインテットのライヴ」と称えられるFive Spotでの2週間のライヴであり、これは残された3枚余の名盤によって、今も我々が聞くことができる。
「封印された可能性」
- Booker Littleは61年10月5日に、尿毒症で23歳の短い人生を終える。Clifford Brownと、Scot LaFarroが25才で夭折した(この二人は交通事故死)のと同じ20代前半での終止符である。3人ともにそれぞれに新しいことに手を染め、それが認められ、更なる高みへと正に昇らんか、としていた。優れた才能をもった若者達のその後の活動が生み出したかもしれない途方もない可能性は、(ある評論家が指摘するように)惜しむらくは封印されてしまっている。
(Home - Those Groovy Cats - Booker Little / BACK)