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音像と、音場と

  • オーディオを楽しむ人には、その聴く音楽の種類と嗜好によって、再生において音像を重視するか、音場を重視するかの違いがあるようだ、というお話です。
    Nelsonの聴く音楽
  • Nelsonも、それなりの音楽遍歴がありました。クラシックでは、「英雄」、「第9」等の交響曲、「皇帝」、「メンコン」等の協奏曲、「ラズモフスキー」等の弦楽曲、フランクやアルペジオーネ等のソナタ、コダーイの無伴奏チェロ等々です。ウェスタン、ポップス、ロックンロール(古いネ)、ズーク、その他色々です。芸術を通じた人間理解等と意識するようになってからは、何故か相手(演奏家、著者、画家等々)が見えないと不満に思うようになりました。音楽で言うと、大編成のものに感興を覚えなくなったのです。したがってジャズでも、小編成のコンボかヴォーカルが専門です。多様なジャズを楽しめる方が世界が広がって良い、と頭では思っていても体が付いていかないのです。理屈は如何様にも付くし、悪い癖と自覚もしてるのですが、兎に角そうなんです。
    相手の顔
  • 音楽で、相手の顔を見たいと思うと、やはり志向としては音像追求になります。全体としての音楽の表情、雰囲気よりも、今の手さばき、インタープレイに目が行き、アドリブの変幻に集中してしまいます。例の「ホラ、今、笑っただろう。」と感じるところまではノメリ込んでいないのですが、それに近い「相対(あいたい)感」が欲しいのです。奏者の感情が直裁に演奏に現れるのは、実は決して上質な芸術表現なことではないことは分かっているのですが、そういうジャズが嫌いではありません、そして、奏者と心を通じ合いたければ、「顔が見える」再生が好ましいと思ってしまうのです。
    アドリブの細部に酔いしれる
  • そうすると、どうしても一人の奏者が他の奏者の伴奏を踏まえて展開する「アドリブ」の一部始終を、肌で感じ取りたい、と言うことになります。あるいは、せいぜい2,3人程度の人達のインタープレイの全貌をくまなく聞き取りたい、という気持ちが強くなります。無論、サン・ラやミンガスの集団演奏の妙味は承知した上で、どちらかと言えば一人、二人のご贔屓の演奏家に密着したい、というのが正直なところです。
    音場型のシステム
  • 今様のシステム、特にスピーカーの一部には、細部よりも全体が良く分かることを優先したものが多くなっています。静電型のものはかなりのものがそうですし、小口径ユニットを精巧に組み上げたものもその感じが強くあります。箱鳴りなど微塵もしない剛直なバッフルに付いていたりします。それらを試聴すると、一聴なかなか良いと感じるのですが、「これを毎日聞くのぉ」ということになり、まぁ、好きな人が聞けば良いんじゃない、と思ってしまうのがオチです。有名なリ○や、その他の米国の新参メーカーのスピーカーなども聞きましたが、どうもかったるくて、「ハッキリせぇ。」と言いたくなるのです。
    スピーカーを睨み付けて、、、
  • 決してそのつもりはないのですが、時に「スピーカーを睨みつけて聴く」ということをしているのかもしれません。汗臭い、ギンギンの、情感ほとばしる演奏ばかり聞いている訳ではないけれど、普通の人よりはそういう傾向のあるジャズを聴く方なのかも知れず、従って音像型のシステムが性に合っているのかな、ということです。時々見掛ける議論で、「音像志向は古臭い、今は音場志向の時代」、という言い方は勘違いであり、「聴き方」の問題ではないかと思います。

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