何を聴こうとするのか
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(以下の記述は、MJ誌の記事を読んでのNelsonの印象であり、関係者を誹謗中傷する意図は全くありません。むしろ、この手の論争はもっとやって欲しいと思っているものの一人です。)
- MJ誌の座談会で面白いことをやったことがあります。切っ掛けはさる試聴会だったらしく、ロリンズの初期の録音を、最新のメディアに焼き込んだXRCDを、最新のハイエンド機器で再生したらしいのです。音量も凄かったのでしょうが、微細な音も拾ってしまう高精度な再生がなされたようです。これを聞いてさるジャズ喫茶店主(評論家でもある後○さん)が、こういうコケ嚇しな再生や、それをもてはやす論調はジャズの理解にとって無用であり、おかしいと述べられた。それを聞いた主催側関係者が編集部に「あんなこと、言わせとくのかョ」とコメントし、「そんじゃぁ、誌上で討論を、、、」となったようなのです。(詳細はMJ誌97/6号をどうぞ)
- 店主は、音楽の本質は、このように物理的に微細なものを再生しても捉えうるものではなく、むしろ骨格だけを再生すれば十分であり、聞く側は対象となる音楽の成り立ち、演奏者の意図等々にもっと意を払うべきである、従って、過度に正確な再生の追求は集中すべき神経に余計な擾乱を与えるので、百害あって一利なしであり、音楽に接する態度に問題あり、と言われているようであった。これはこれで、納得できないことではありません。
- 主催者側は、再生音楽においては録音された音源の真の姿に肉迫することが、先ず何より大事であり、音源に入っているのであれば如何に微細な音であれ、更には例え雑音であれ、すべてを再生することに努めることが先決である、その上で、正にその演奏の本質の議論が始まる、世に均衡を欠いたジャズの本質を踏まえない音源があるとしても、それ自体はオーディオの問題ではなく、制作者側の問題である、正確な再生について予断を以って抑制をするのは鑑賞の基本を捻じ曲げる恐れなしとしない、と言われているようであった。これも理屈は通っています。
- 店主の意見は、眼前に技術の粋を尽した、恐らく上質の再生が展開され、心動く所があったものの、再生装置如きでジャズの鑑賞、評価に新展開があっては堪ったもんじゃない、とも聞こえました。それに対して、主催者側の意見は、ライブは別として、再生音楽は音源が唯一の典拠であり、これの正確な再現は誰はばかる所のない重要事である、個別の意に染まぬ再生がされたからといって、正確でないというのなら兎も角、間違った再生といわれる筋合いはない、と言われると同時に、制作者が音楽を適切に理解していないかと思われる音源も無くはないと認められていました。
- 先ず論点の第一は、聞こえ方によって感動は違うのか、という点でしょうか。小中学生の時期にラジカセで聞いたある特定の音楽が、一生の音楽行脚の原点である人は多いし、ふと耳にしたカーラジオの音楽に感激した覚えは誰しもありましょう。一方、装置を新しくして、御ひいきの演奏者の演奏がどう聞こえるか聴いてみた所、「すっごーい、今まで俺は何を聴いてきたんだろう、、、」と驚いた経験がある人も、居られましょう。店主も相当の装置で日頃研鑚を積んであられる方であり(JBL 4344か)、音源及び装置が良ければ感動が増すことは認めています。どうも、カーラジオの場合は装置の程度を超えて感動できるほど、その音楽と、その時の気分・体調が優れていたということでしょうか。一方、やはり演奏者の本質により肉迫するには、装置は、あるいは再生は高度な方が良い、ということでしょうか。
- 次に、店主の論点の第二である、「音を聞くのではなく、音楽を聴くことこそが重要である」という点です。これは間違いなく正鵠を得ています。音に捕らわれる余り、音楽を聴いていない場合があるとしたら、これは問題です。しかし、これはオーディオに対するコメントと言うより、聞く人の姿勢に対するコメントのようです。とっかえひっかえ装置いじりをしている人が結構居らっしゃいますが、そういう人は長続きしないでしょう。
- ちょっと聴きで感動するのと、何度も聴いてやっと納得が行ってそれ以来深く感動するようになったのとは、どちらが良いのか、と言うことも話題になっていました。店主は、多くの場合ジャズはちょっと聞きでは判らない、と主張します。主催者側は、判らなくったって感動は出来る、と反論します。この辺はオーディオ論議ではなく音楽、あるいは芸術談義の範疇です。Nelsonの私的な経験から言うと、この点の経験は色々ですね。はまるものは最初からはまってしまったし、何度も聴いてから好きになったものもあります。でも、すぐに他所が気になったりして、、、(^^; 馴染み、または理屈で好きになる演奏には、肌に合う好みとは別物で、好きといっても限界があるような気もします。
- 主催者側が、「ジャズに縁の無い人が、たまたまジャズを聞いて感動することがあるように、ジャズにも普遍性がある筈ではないか」と問いかけると、評論家の自負の問題なのか、店主は、「ジャズについて本当に分って、好きになるのでなければ、感動できる筈が無い」と繰り返し主張します。Nelsonは、店主よりはもっと感覚的であり、「好きなものは好き、で何が悪いのか」と思います。しかし、これは市井のド素人だから言えることで、評論家である店主はそうはいかないのでしょう。「理屈は後付けじゃないのかなぁ」という気もしますが、、、。非常に乱暴に言えば、マイルス・デヴィスの研究家がある演奏が最高だと言ったとしても、Nelsonがそのマイルスの演奏から得る感動の方がもっと大きい場合だってある筈です。
- 演奏家の自宅の装置についての話題もありました。大抵の演奏者は、それほどオーディオに関心を持っていないというのです。また、音楽の鑑賞には音色が重要であり、良い装置でなければ駄目だと言う演奏家もいたそうです。確かに、ジャズ喫茶があれだけの隆盛を示したのも、程度の差こそあれ、少なくとも自宅で聴くよりは良い再生が行われていたことが大きな理由だったのでしょう。
- ルディ・ヴァン・ゲルダーの録音についての話題もありました。忠実ではないが、ゲルダーなりの整理をして録音がされており意義があった、と店主は言います。主催者側は、今でも彼の手法は有効であると賛同しています。ただし、それは制作者が演奏家とが合意の上でやるべきことであり、音源を受け取った再生側のオーディオでそういう整理をやるのは御法度、と主張します。
- 記事にはありませんが、最新の音源のフィクション性の問題もありそうです。だって、ヴァン・ゲルダーの頃なら兎も角も、マルチマイクで鮮明に録音する今の音源では、聞き手は全ての楽器の傍に居るというマカ不思議な存在になっています。気の利いた音源なら、さらにホールトーンまで入っていて、実に欲張った状況にあります。このように、一番素朴な、PAなしのライブで、普通の人が聞くジャズの演奏とは相当に違った音源が多くなっていることが、店主の気に入らない点でもあるのでしょう。言ってみれば、今様の音源は脚注がやたら付いた小説のようなもので、説明過多という指摘とも思えます。Nelsonは、「それもあるかなぁ」と認めますが、そういうCDを売り出すことを了承しているプレイヤーの考え方にも配慮すべきでしょうし、、、
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